森有礼 (近世名士写真 其2)

 明治22年1月11日、天皇は新装成った宮城へ遷御し、明治6年の皇居炎上以来、17年間の赤坂離宮暮らしを終了した。 新宮殿造営に際し、和洋いずれにすべきかの議論がかまびすしかったが、榎本武揚が皇居造営事務副総裁に就任するや和洋折衷 方式と決定し、以後工事ははかどり、総工費390万8232円56銭5厘をもって落成した(同時代史)。
 2月11日、新装なった正殿にて、帝国憲法発布式が挙行される。当日は紛々たる雪の朝で、一面の銀世界、 「天が下界を清よむ」と語るむきもあった。全国的な祝賀ムードで、朝のうちこそ雪で出足が鈍ったが、午後から晴れて、 天皇が出御して、上野公園にて国民の祝賀を受けることとなったので、百を超える山車が引き出され、おびただしい花火が 打ち上げられ、「大学・中学を始めとして各種の学校の制服姿の学生が隊伍を組み、大小の旗をかざし、趣向を凝らした飾り物 を持ち出し」、「往来の混雑は神田山王の両祭を合併して、盆と暮れとの宿下りを一つに寄せたるが如き有様あり。 (中略)人と山車と踊屋台と揉合ひて、先へ進めず、後へも退けず、押しつ押されつ、ただ芋を揉むが如くして、はふはふに 逃げ出づるもの少なからず。」(同上)という光景となった。「国民が国家に対して、『万歳』と呼ぶ言葉を覚えたのも確か 此の時から始まったように記憶している」と荷風は述べている(半藤一利「漱石・明治・日本の青春」)。
 この日の朝、8時頃、文部大臣森有礼は、式典出席のため、大礼服に身を固め、官邸を出ようとしていた。一人の青年が現れ、 自分は内務省土木局に勤める山口県人・西野文太郎と申す者だが、至急閣下のお耳に入れたき儀があり参上したと述べた。 中川秘書官が応対していると、そこに出掛けようとする森有礼が現れた。西野はいきなり森に抱きつくと、右手に握った 出刃包丁で、森の脇腹をえぐった。「狼藉者!」という中川秘書官の叫びに飛び出した護衛の警官は、一刀のもとに西野を斬り 倒した。ただちに医師が呼ばれ、応急処置がほどこされたが、森は翌朝、午前5時に絶命した。43歳だった。
 23歳の西野は斬奸状を懐中していた。それによると、「文部大臣森有礼、之れ(伊勢神宮)に参詣し、勅禁を犯して靴を 脱せず、杖を以て神簾を掲げ、其の内を窺ひ、膜拝せずして出づ」と罪状を記している。これは、当時のいくつかの新聞に報じ られたことであるが、西野はそれを鵜呑みにしたわけではなく、自ら伊勢神宮を訪れ、神官より事情を聴取している。 果たしてそのような行動があったのであろうか。森有礼の孫娘・関屋綾子がその間の事情を次ぎのように語っている(「一本の樫の木」)。


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