来島恒喜の墓

 来島恒喜の投げた爆裂弾により、黒田内閣は総辞職となった。後藤象二郎がこの旨を明治天皇へ奏上したが、 その折り「総辞職と申せば一大事のように聞こえますが、立憲政体の稽古始めで、能楽の三番雙のようなもので ございます」と付け加えると、「龍顔麗しく打ち笑ませたまえる由」(同時代史)であった。
 「後藤は一筋縄にて縛るには複雑に過ぎ、味方となるに早く、敵となるに早し」と三宅雪嶺は述べているが、 しばらく「同時代史」によって、彼の言動を見てみよう。後藤は遊説の際、改進党員が出席している場所では 自由・改進の差別は撤廃すべきと説き、改進党員がいない席では、「官進党」だと悪口を言った。大隈は後藤が 横着者であることを承知の上で、用いようとしたが、後藤はそれ以上の横着者で、「朝に夕を測り難く、かつ これを弁解するに平然たり」という有様である。後藤が遊説して歓迎されたのは、彼の功績というより、全国的 にそういう機運がみなぎって来ていたからで、彼が遊説に行かなかった土地からも、呼応する者が出て来て、 さらに大赦で出獄した民権家がこれに加わるに及び、なんらかの行動を起こさざるを得ない気運となった。 明治22年4月28日、大同団結を志す者80余名が一同に会する。4月30日、組織についての起草委員会 が発足するが、席上、政社とするか否かで議論が分れる。政社とすべしと主張したのは東北十五州と関西多数県 の委員で、千葉を除く関東諸県と愛知県の委員は非政社を主張した。その結果は分裂で、大同協和会・大同倶楽部 という二組織が誕生した。板垣退助はなんとか分裂を避けようと、調停に努めたが、どうにもまとまらず、 とうとう手を引いてしまった。「政界は雲乱れ、晴雨の定まらざるが如し」(同時代史)という状況になる。
 大同協和会は52名で、常議員15名の内、主要人物の名を挙げると、大井憲太郎、内藤魯一、新井章吾、 石阪昌孝である。数において勝る大同倶楽部は常議員を各府県より出し、主要メンバーは、犬養毅(東京)、 植木枝盛(京都)、八木原繁(新潟)、末広重恭(愛媛)、河野広中(福島)、井上角五郎(広島)、稲垣示 (富山)、小林樟雄(岡山)、村松愛蔵(愛知)である。
 大同団結が実を結ばぬうちに、提唱した本人が入閣してしまい、残ったのは「団栗の背くらべ」(同時代史)で、 中で「もっとも闘志の強い者」として星亨と大井憲太郎の二人が挙げられるが、星亨は「政治家は三つの力を 備える必要がある。智力・腕力・金力で、自分は腕力・金力はあるが、智力に欠けている」と称して、洋行して しまった。以後は、大井憲太郎の独壇場で、「いやしくも合わざると並び立つを欲せず」(「同時代史」)という 状況になった。


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