「同時代史」によると、日本の政党は「自由」を唱えて登場して来たけれども、その素性は「尊皇攘夷を唱へし者 が一転して自由を唱ふるの跡あり」、「他国に自由主義と称するところと同じからず」、「最初に血の躍るを 覚えしは米国独立および仏国革命」で、朝にルソーの民約論を語り、夕に易水の歌をうたうといった調子で、 「変を好み、乱を欲する者にして、思慮分別よりも勇往邁進して、もって愉快なりとす」。これに対し、大隈重信 の率いる改進党の党員は、不平士族と違って、名望・財産の備わる中流階級が主で、「たいてい外国の原書に ついて学び、議論において筋道の立つこと自由党員にまさる」、「内治の改良を主とし、国権の拡張におよぶ」 とう風であった。しかし、「議論に長じて運動に長ぜず」、「思慮深きがごとく、しこうして闘争力に欠く」 というのが欠点だった。
 22年の7月に、条約改正論は沸騰点へ達しつつあった。大同倶楽部・大同協和会とも、条約改正反対では一致 しており、「範囲を異にしながら、一道の気脈の通じ、大挙して大隈一派を包囲攻撃するに至る」(「同時代史」)。 新聞紙上における論争も熾烈となり、谷干城、鳥尾小弥太、三浦梧楼らのよる「日本」は攻撃側の筆頭で、紙上 に改正論の弁護側・攻撃側をその熱度において分類し(「日本」自身は熱度において最高と除外し)、「沸騰点」 に達した新聞として、「弁護側」報知新聞、「攻撃側」東京公論・東雲新聞を挙げる。新聞論争が熾烈となるに 従い、演説会・建白書提出も盛んとなった。黒田首相は大隈の条約改正案を了承し、改進党を与党と見なし、 警視総監にこの保護を命じた(改進党は自由党のように壮士を持っていないから、演説会開催には警察官に守って もらうしかない)。改進党は8月26日、東京の新富座で、全国有志大懇親会を開催し、翌27日から3日間、 弁士89名登壇の大演説会を開いた。会場には警官多数が配置され、続出する妨害者を拘引し、「演説を聴かず、 演説を観る」という光景になった。元老院は、9月30日、条約改正について、国論の帰趨を調査したが、それによると 断行論120,中止論185,即ち断行3,中止5という割合である。
 総理大臣黒田清隆は枢密顧問官へ転出し、総理大臣は一時内務大臣三条実美兼任となるが、やがてその椅子は 内務大臣山縣有朋へ譲られる。大命降下は明治22年11月24日で、山縣のこれまでの軍功を賞し、陸軍の方は 現役のままで良いとなった。山県は「自ら首相の器にあらざるを言い」、第一議会を無事に通過させることを自らの 任務として、これを引き受けた。「謙遜と云はば謙遜、漸く老獪と称せらるる所以なり」と三宅雪嶺は評している(同時代史)。 長州藩の足軽よりさらに下の「中間」から身を起こした彼は、徴兵令が発せられた明治6年当時、陸軍卿の地位にあった。 士族は徴兵令に猛反発する。平民もまた徴兵忌避であった。山縣は明治8年、徴兵令の更なる改正の意見を出す。 「不平士族・徴兵忌避の『平民』と対立する山県を間接的に支えたのは民権運動家だった」、「山県のめざす国民皆兵とは、 軍事的な観点からの国民の平準化のことである。山県の意図を超えて、民主化につながる。民権運動の側が間接的に 支持する結果となったのは、もっともなこと」と井上寿一は指摘する(「山県有朋と明治国家」)。

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