山縣有朋
(国会図書館-近代日本人の肖像より)

 やがて士族の不満は明治10年の西南戦争となって爆発する。陸軍卿(陸軍中将)兼参軍としてこれを鎮圧したのも 山縣有朋であった。その後、明治16年、内務卿に就任し、18年内閣制度(第一次伊藤内閣)発足に伴い 初代内務大臣となる。彼は政党に好意を持たず、いたずらに騒ぎを引き起こすような連中は、厳しく取り締まれ という意見で、明治20年12月25日、自由民権家570名を帝都から追放する保安条例を発令したのも彼だった。 「お前が嫌やならオレがやる」とためらう警視総監三島通庸を叱咤して実行を迫った。当日夜9時ごろ、山県はお忍びで 真っ暗な街へ出る。目指すは芝愛宕町の金虎館。ここは土佐派民権壮士の巣窟で、それを取り囲んで巡査の丸提灯 が蝟集しているのを見て、「ウム、やっているな。よしよし」とつぶやき、その足で、午前2時ごろ、永田町の首相官邸に 伊藤博文を訪ね、最後の打ち合わせをした。26日早朝、警官隊は金虎館へ踏み込み、退去を拒む片岡健吉ら 高知県総代15名を引つ括り、監獄へぶち込む。中江兆民、尾崎行雄、林有造追放、星亨投獄(罪名:秘密出版) となった。(半藤一利「山縣有朋」)。
 明治21年4月、伊藤博文は新設の枢密院議長のポストへ移り、黒田清隆が後継内閣を組織するが、山県はこの内閣 に内相として留任する。彼が力を注いだのは、市制・町村制・郡制・府県制の制定だった。市制では第一級選挙人である 「財産家」が市会議員の三分の一を選ばれるように、郡制では「大地主」(町村税の対象となる地価が一万円以上の者) が郡会議員の三分の一を占めるように工夫されていた。財産と知識を共有するこれらの人々が地方行政を担えば、 空論を口にする民権家は地方政治より締め出され、帝国議会開設の暁には、これら「老成着実の人士」が代議士として 議事を運営し、政府と議会の軋轢は生じないだろう。つまり、藩閥勢力の政治支配を「財力、知力を備ふる地方名望家」 の支持によって補強し得ると狙ったのである(岡義武「山縣有朋」)。
 この明治21年秋、川上音二郎が時事風刺のオッペケペー節を歌い始めるが、この歌は24年にかけて大流行した。

   民権論者の涙の雨で
   みがき上げたる大和魂
   国利民福増進して民力休養せ
   若し成らなきゃダイナマイトドン

   四千余万の同胞(そなた)の為にや
   赤い囚衣(しきせ)も苦にゃならぬ
   国利民福増進して民力休養せ
   若し成らなきゃダイナマイトドン


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