23年10月の教育勅語発布に際して、山県は起草段階で、一国の独立維持は陸海軍の軍備に依る旨を書き加えるよう、 草案作成者・井上毅に頼み込むが、この依頼は実現しなかった。
 これほど山県首相が危機感を抱いた当時の国際情勢とはどのようなものだっただろうか。
 1860年の太平天国の乱に際して、英仏連合国と清国の間を調停したロシヤは、報酬として、清国より沿海州を割譲させた。 翌1861年(万延元年)、ロシヤ艦隊は、南下して対馬を占領し、これを退去させるのに、幕府は英国の力を借りねばならなかった。 1867年(慶應3年)フランスはカンボジアを保護国とする。明治4年、ロシヤはイリ地方(清国の領土)を占領。さらに翌5年、 樺太領有(千島を日本と交換)。明治6年、ウラジオストックに、ニコライエフスクにあった鎮守府を移し、海軍根拠地とした。 明治16年、フランスは清国より安南を奪い、カンボジアと併せて、総督政治を施行する(仏領インドシナ)。明治18年、英国は ビルマを征服、勢いを駆って朝鮮巨文島を占領するが、日・清・露の抗議に逢い2年後に撤退した。明治20年、ポルトガルはアモイを占領。
 林房雄は、これらの情勢を考察して、徳富蘇峰の「蘇峰自伝」より、「当時の民権自由論は、その名目が民権であって、その実は 国権であった」、「民権論者の中でも半ば以上は、朝鮮討つべしなどという論が多かった」を引用して、「東亜百年戦争」説を唱えている。 (「大東亜戦争肯定論」)。
 このような情勢下での明治22年2月1日の大日本帝国憲法発布であった。中江兆民は、一読して「通読一遍ただ苦笑」しただけで あったが、ほとんどの国民は、これまでの藩閥専制が改められ、民主的な「立憲君主制」へ移行するだろうという期待を抱いた。 明治22年2月6日発行の「女学雑誌」(キリスト系の進歩的雑誌と目されていた)の巻頭言で、社主巌本善治は、憲法発布を前にして 私は、此の日を来すために死んでいった人々のことを思い起こす。そして感謝の気持ちにかられる。しかし、こんどの憲法はその人びとの力に よってもたらされたものではなく、仁慈の陛下が御下賜なされたものである。私たち全国三千九百万の国民は、陛下への感謝の気持ちの もとにこの日を迎えねばならないと記した(憲法第28条には「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ 信教ノ自由ヲ有ス」と記されていた)。また徳富蘇峰は、「今日ノ門出ハ絶望ノ門出ニアラズシテ希望ノ門出ナリ」(明治19年10月10日 の「将来の日本」緒言)とも記した。北村透谷の反応はこれらと正反対で、民権運動からの敗退にうちのめされた彼にとって、 それは「絶望ノ門出」だった。このような透谷の虚無、自虐の苦悩は、新時代の花形としてデビューした蘇峰の眼には「冷笑者流ノ輩出」 としか映らなかっただろうと色川大吉は記している(「北村透谷」)。


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