水戸伝道記念写真「北村透谷」笹淵友一(福村書店)
透谷  モリス  コーサンド
板垣母子  モリス夫人  ミス・ヘーンズ

 透谷より一歳年長の夏目漱石(慶應3年誕生)は、明治17年に東京大学へ進む順路である大学予備門予科へ入学するが、 それ以前に、二松学舎(漢学私塾)、成立私塾(英語)と転々としている。透谷も、小学校卒業後、東京芝にあった岡千仞の漢学塾、 山梨県南巨摩郡の蒙軒学舎(英数漢を教える)、東京本郷の共慣義塾(英語中心の予備校)と転々としている。透谷が大学予備門予科 を受験して不合格となったとはどこにも書いてないが、これらの塾遍歴は彼の自由意志によるものか、それとも医者であった父親の指示のもと 大学予備門予科を目指し、結局志望かなわず、その後、神奈川県会の臨時書記、横浜グランドホテルのボーイ等の職を経て、明治16年9月、 東京専門学校(早大の前身)政治経済科への入学につながるのではないかといった憶測を誘う(彼の民権運動の同志、石阪公歴は大学 予備門受験不合格の後、渡米する)。しかし入学した、東京専門学校もやがて月謝未納で除籍となる。彼がふたたび、同校へ再入学する のは明治18年9月で、今度は政治経済科ではなく専修英学科であった。彼はここでこれまでの民権壮士的な政治への夢を捨てて、文学を 生涯の目標に据えたのではないかと推測される。しかし、結局ここも卒業していない。 明治21年11月に結婚した透谷・美奈の新夫婦は、透谷の母が営む煙草屋の二階に愛の巣を営んだ。しかし、たちまち日々の糧の心配を しなければならなかった。美奈は家庭教師のアルバイトを始める。この頃の透谷について、島崎藤村は「『貧詩人の悲しさ』といふ言葉はよく 北村君の手紙にあった。『餓(うえ)』といふ題で何か書いて見たいとも言って居た」と記している(「新片町より」)。明治22年は年末に日本 最初の経済恐慌が起こった年として記憶されるが、同年春、透谷は職探しの伝手として、蒙軒学舎時代の英語教師C.S. イビーを頼って みることを思いつき、麻生霞町のイビー宅を訪問し、彼の助手のような仕事(翻訳等)にありついた。さらに同年、翻訳者募集の新聞広告を見て、 これにも応募し、合格した。広告を出したのは、英国人ブレスウェート(George Breithwaite)で、英国聖書会社の業務で来日していた。 キリスト教信者としての彼は、普連土派に属し、同派の宣教師として、明治18年から夫妻で在日している米人コーサンド(Joseph Cosand) 牧師の布教を支援していた。
 明治22年夏に、英国平和会の前書記、ウイリアム・ジョーンズ(William Johnes)が世界平和伝道旅行の途次日本に立ち寄り、 ブレスウェートの斡旋で、東京京橋の厚生館で平和講演を開いた。透谷もこの講演を聞く機会があり、これがきっかけで、わが国最初の 平和運動団体、「日本平和会」創立にかかわることとなった。日本平和会の書記は日本メソジスト下谷教会からクエーカー教徒に改宗した 加藤萬治(かずはる)で、この年の12月27,28日の両日には、水戸でコーサンド牧師らの説教会が開かれるが、3名の通訳一人として透谷 も加藤もこれに同行している。通訳としての透谷は、着流し懐手で登壇し、事前の打ち合わせとはまるで違った内容を通訳し、牧師を困らせた という。生活手段として始めた通訳業務であるが、彼は次第にこの仕事に興味を抱き、積極的に関わるようになっていった。
 


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