Joseph Cosand
「北村透谷」笹淵友一
(福村書店)より

 明治21年3月透谷が、日本基督教一致教会の数寄屋橋教会で、牧師田村直臣により受洗したのは、司祭を置かず長老が上に立つ 長老派(英国系)教会(プロテスタント、カルヴァン主義)であった。これに対し、彼が生活の手段として始めた翻訳・通訳業務で出入りする コーサンドの普連土派は米国のクエーカー(新渡戸稲造もこの宗派)で、個々人が持っている「内なる光」に神性を求め、それを単なる観念 ではなく神秘的体験によって知覚し得るとする一派であった。その宗派の人々と接触を重ねる内に、透谷はそのリベラルな傾向に共感を抱き、 この派の人々との親交を深めていく。
 フランス革命百年目に当たる明治22年は世界史的に画期的な年であった。第二インターナショナルが結成され、5月に最初のメーデーが 実施され、また各国の平和会がパリに集結し、最初の平和会(The Universal Peace Congress)が開催された。日本では コーサンド牧師・ブレスウェート・加藤萬治らがこれに呼応して、11月に日本平和会を設立する。同会は明治25年に機関誌「平和」を発行し、 透谷は同誌の編集・寄稿に活躍するが、これはまだ先の話である。
 明治22年、三田聖阪にある普連土派の女学校(20年開校)は、新校舎を落成し、「普連土女学校」と校名を定めた。23年11月から、 透谷はこの学校へ通い始める。従来、「英語教師」説であったが、最近の米側資料によると、翻訳業務で、彼が恋情を抱いた富井まつ子も、 「教え子」ではなく、同僚ということである「北村透谷研究 評伝」)。 22年7月、透谷はキリスト教的婦人啓蒙雑誌「女学雑誌」(編集・発行人:巌本善治)へ「『日本の言語』を読む」を投稿し、これが掲載され、 以降、掲載回数は増えていった。

 歳の瀬も迫った大晦日、透谷が明治22年に数寄屋橋の実家の二階から転居した芝公園地内三八号とはどういう場所か尋ねてみる気になった。 午後の早い時間に家を出て、相模大野駅から小田急新宿行きの電車に乗る。混んでいるだろうと予測していたら、意外に車内はガラガラだった。 車窓の外は、生産を停止するとかくも空が澄むのかと思える青空だ。明治時代の冬はいつもこのようだったのだろう。奥多摩の山々もくっきりと見え、 折々現れる武蔵野の面影を残す雑木林も坊主になっている。


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