聖アンデレ教会        聖オルバン教会
 新宿で大江戸線に乗り換え、赤羽橋で下車した。東京タワーを目標に進む。大晦日というので商店は大戸を閉ざし、街は閑散としているが、 タワーに近づくと通行人が多くなってきた。一見同胞のようだが、話している言葉を聞くとほとんど例外なく外国人、というよりアジア近隣諸国の人々だ。 東京タワーは見慣れた存在だが、近くに来たのはこれが始めてで、いまさらながらその巨大さに圧倒される。人文社で出している「古地図・現代図 で歩く」と副題のある「明治・大正東京散歩」という本が頼みの綱だが、これによると「芝公園地内」は二五号までで、透谷夫妻が住んだという 三八号の記載はない。区役所出張所か図書館のような所で聞けばと思うが、大晦日なのでどこも閉まっている。透谷夫妻がキリスト教徒だった ことから、近くに教会があれば、そこでなんらかの情報が得られるのではないかと思いついた。幸いに交番があったので、さっそく教会の所在を尋ねた。 「ありますよ。そこの坂の上に二つも並んであります。」という返事だった。東京タワーの巨大な橋脚を左に見ながら、坂を登る。橋脚の下には二階建て のデパート様の建物がすっぽり入っていて、周りにはアジアの人々が蝟集している。さまざまな屋台が出ていて、たいへんな賑わいだ。坂の頂上には、 「永井坂」と記した木の標識が建っていた。この辺の江戸時代の名主永井某にちなんだ名前の由である。
 坂上には、教えられたとおり、教会会堂が二つ並んでいた。手前が聖オルバン教会、その向こうが聖アンデレ教会である。二つの会堂の歴史は Wikipediaで調べてみると、聖オルバン教会は明治6年のキリスト教解禁と共に、英国公使館付牧師として来日したアレクサンダー・クロフト・ショウが 明治10年にこの地を購入して自宅を建て、東京在住の英国人のための英語による礼拝堂を建てたのが始まりで、その後、地震・戦災による消失の 変遷を経て、現在の姿になった由である。小道を隔てて、隣接して建つ聖アンデレ教会は、平成8年に建設され、日本聖公会東京教区の主教座聖堂である。 聖オルバン教会の方は扉が閉まっていたが、聖アンデレ教会の方は開いていて、中の信者席に十人ほどの人影が見えた。入口で待っていて、やがて 出て来た人々に、この教会と透谷の因縁の有無を尋ねて見ようとしたが、ことごとく言葉の通じぬ異国の人だった。
 後日、芝公園地内三八号について、港区の「みなとコール」に問い合わせ、芝地区総合支所区民課窓口調整係に聞くようにと教えられ、同係 に問い合わせたが判らず、区政資料室に聞くようにと言われて、同室へ問い合わせたが、返事は「明治大正東京散歩」に記されている通り、 芝公園地内は二十五号までで、それ以上はないという答だった。人文社で出している「古地図ライブラリー4」に明治19年~20年に出版された 参謀本部陸軍部測量局による「五千分一東京図」というのが掲載されているので、これの「愛宕下・築地」という頁を調べてみたが、芝公園の 徳川霊場を取り囲む周辺に三八号は見いだせなかった。(中村聰)

{参考図書}三宅雪嶺「同時代史 第二巻」、近代デジタルライブラリー、井上寿一「山縣有朋と明治国家」、半藤一利「山縣有朋」、岡義武「山縣有朋」、 林房雄「大東亜戦争肯定論」、色川大吉「北村透谷」、笹淵友一「北村透谷」、  高橋昌郎「明治のキリスト教」、教文館「日本キリスト教大事典」、黒川知文「日本史におけるキリスト教宣教」、八木谷涼子「キリスト教大研究」、 平岡敏夫「北村透谷研究 評伝」、永畑道子「雙蝶」、島崎藤村「新片町より」、高橋正幸「北村透谷と『平和』」、人文社「古地図ライブラリー4」、 日本文学研究叢書「北村透谷」。




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