第一回内国勧業博覧会開会式   国立国会図書館所蔵

 内国勧業博覧会は、殖産興業を目指す、初代内務卿・大久保利通の提案で、その前年開催されたフィラデルフィア万国博覧会 に範を取り、内務省主導で、明治10年8月に、上野公園で第一回が開催された。この年2月に勃発した西南戦争がまだ 継続中(戦争終結は9月)のことである。実務は副総裁が担当するが、総裁は皇族で、開場式には明治天皇が臨幸し、勅語を賜った。 公園は数千個の提灯で飾られた。第二回は明治14年3月1日から6月30日まで開催され、第一回の入場者(45万人)の倍近い 82万人の観客が押しかけた。第三回は明治18年開催予定が延び延びとなり、明治23年4月1日より7月23日まで開催されたが、 観客数はさらに増え、1,023万人を数えた。この時建設された「参考館」(煉瓦2階建て)は、終了後、博物館3号館として 使用され、竹の台に建てられた2棟も、その後、竹の台陳列館として、美術展会場として利用される。
 この第三回博覧会会場の人混みの中を金玉均(岩田周作)が歩いている。函館にいた彼は、病気療養のための第2回目の上京を許され、 4月10日から在京していたのだ。この会場で、金玉均は懐かしい小笠原の島民と再会した。その折り、金玉均は小笠原で自分のことを 「アボジ(お父さん)」と呼ばせて起居を共にした子供たちの中の和田延次郎が東京に来ていることを知り、遊びに来るようにと伝えた。 以後、和田は金玉均の書生となり、後に彼の死の現場に立ち会うこととなる。この年の11月21日に、金玉均は4年4ヶ月に及ぶ流刑 (日本官憲による束縛)を解かれ、晴れて自由の身(内地自由居住許可)となった(これまで毎月50円ずつ支給されていたが、それも 廃止になった)。この年、彼は腸チブスを患い神奈川県の高島嘉右衛門別邸で予後を養っていた朴泳孝(山崎永春)と連れ立って、 伊香保へ湯治に出掛けたりしている。
 しかし、明治24年になると、壬午軍乱の後始末のため訪日した朝鮮修信使(全権大臣・朴泳孝)以来の仲である、朴泳孝と金玉均の 友情に罅が入った。原因は大院君(国王生父)より両名に帰国を促す密書が来た(24年2月)ことで、金玉均はこれに応じようとし、 朴泳孝は反対する。大院君は朴・金の両名を帰国させ、二人を自己の麾下に置くことにより、漢廷の実権(国王高宗の嫁・閔妃が握っている) を奪還しようと謀ったのだが、老獪な彼はまた李鴻章へも密書を送っている。この年(24年)にはまた駐日清国公使・李経方 (李鴻章の養嗣子である)も金玉均に接触して来た。そして翌明治25年には、朝鮮から三人の刺客(李逸植(頭領)、権東寿、権在寿) が、朴・金の命を狙い、日本へ送り込まれて来た。
 平成13年12月18日に、今上天皇は桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であることを挙げ、皇室と朝鮮の繋がりについて言及して いるが、透谷の出自もまた百済に繋がる。その朝鮮は1627年(寛永4年)に女眞族の後金に征服され、兄弟国の盟約を結ばされ、 弟国の朝鮮は毎年一定の上納金を貢がねばならなかった。やがて後金は国号を清と改め、今後は臣従せよと朝鮮に通告して来る。 「小中華」のプライド高い朝鮮はこの要求を蹴り、戦争となる。1636年(寛永13年)、太宗率いる八旗軍13万は、怒濤のごとく 鴨緑江を渡り、わずか5日で、漢城(京城)に迫った。朝鮮国王・仁祖は胡服を着せられ、太宗に向かって9回地面に頭を付けて叩頭 するという屈辱的な降伏を行った(豊田隆雄「本当は怖ろしい韓国の歴史」)。満州族の清は異民族多数 (漢民族、モンゴル族、チベット族、ウイグル族等)を支配していたため、貢物さえ出せば、平和な生活を保障し、朝鮮にもこの後 それなりの平和が続く。しかし、1840~42年のアヘン戦争、1856~60年の第二次アヘン戦争(アロー戦争)と、大清帝国 は落日の色を深め、1894~95(明治27~28年)の日清戦争でとどめを刺された。この時、朝鮮は初めて大清帝国のクビキ を脱し得る。清の使節を出迎えるための迎恩門と慕華館は壊され、跡地に独立門と独立館が建てられた(同上書)。


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