第一回内国勧業博覧会

 日本の対朝鮮貿易は壬午軍乱・甲申政変によって後退したが、明治23年(1890)~24年(1891)に掛けて、回復した。しかも以前は 欧米商品の中継貿易であったのが、日本商品の輸出に変わっていた。「日本製品の比率は1878年~1882年の11.5%から、 1890~1894年には84.4%になっている。この対朝鮮輸出品の比率変化に、この間の日本の資本主義的発展の度数と経済侵略 の深化をみる。」(琴乗洞「金玉均と日本―その滞日の軌跡」)。「朝鮮は、金、銀や白銅貨などの通貨、米、大豆、海産物などを大量 に持ち出され、経済は壊滅的な打撃を受け、米、麦の価格は幾倍にもはねあがった。人民の生活苦ははかり知れない。」(同)。
 こちら日本では、明治21年4月に枢密院が創設されると、初代内閣総理大臣伊藤博文はその議長に転出し、黒田清隆が後継首相となる。 しかし黒田内閣は短命で、明治22年の憲法発布を花道に、同年10月退陣した。その後は内大臣三条実美の首相兼任二ヶ月を経て、 同年末(12月24日)、山県有朋内閣(第一次)が成立した。山県首相は、翌年12月6日の第一議会で、有名な「主権線・利益線」 演説を行う(前号御参照)。「蓋国家独立ノ道ニ二途アリ、第一ニ主権線を守護スルコト、第二ニハ利益線ヲ保護スルコトデアル」。 「保護」すべき利益線とは朝鮮のことである。彼は清国との戦争は不可避として、第一次(明治16年~21年)、 第二次(明治17年~22年)と2回の軍備拡張計画(各八カ年)を策定し、それはいずれも実現した。
 明治24年4月29日、山縣首相は、第一議会終了を機として、勇退を決意する。天皇は伊藤博文に組閣を命じるが、伊藤は受けず、 西郷従道と松方正義を推薦し、蔵相松方正義が、蔵相兼任のまま、首相に就任した。第一次松方内閣の成立である。松方正義と大隈重信 は同年代の生まれで(前者が天保6年、後者が9年)、経歴も似ているが、生まれた藩の違いが二人の明暗を分けた。「アラビア馬」 と渾名される才気煥発の大隈は、佐賀藩出身ゆえに、ことごとく「後入齋」と渾名される手堅い実務官僚・松方(薩摩藩出身)の後塵 を拝さねばならなかった。口惜し紛れに、「薩摩に生まれなかったら、せいぜい知事程度」と大隈は松方を陰で評した (中村尚美「大隈重信と松方正義」、「明治政府 その政権を担った人々」所載)。大隈重信の大蔵卿就任は明治6年から13年まで であるが、その間、国立銀行増設(不換紙幣増発による流通紙幣量の増大)に見られる彼の積極策は、西南戦争による戦費支出と相まって、 戦後のインフレーションを引き起こす。松方はデフレ政策をもって、大隈のインフレ政策に対処した。物価は「松方デフレ」により劇的に 下落した。例えば「値段史年表」(週刊朝日編)によると、白米の10キログラム当たりの小売り価格は、明治15年82銭、明治25年 67銭と記されているが、その間の明治20年は46銭である。米作に頼る農民は窮乏化し、他方、地方税・間接税は増額されていったから、 田畑を手放さざるを得ない農民が続出し、かくて資本制生産に不可欠な賃金労働者が析出(原始的蓄積)されていった。明治13年に 550万戸あった農家戸数は、明治23年には545万戸へ減少した。また明治22年は凶作で、明治23年は第一次恐慌と称される年 である。中村隆英は、「手術は成功したが患者は死んだ」の譬えを持ち出して、「松方財政はそういうところがあるような気がする」、 「松方は正直であったけれども、あれほど国内を不景気にしなくてもよかったのではないか」(明治大正史)と述べている。 松方首相が張り切って就任した5日後に大事件が勃発した。大津事件である。

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