津田三蔵     東洋文化協会
幕末・明治・大正回顧八十年史より

 明治24年4月27日朝、昨夜の激しい風雨も収まり、淡い靄が立ちこめる長崎港に、露国皇太子ニコライを乗せたアゾウ゛ア号が、 4艦を先導、2艦を従え、入港して来た。港内に停泊している満艦飾の日本軍艦5隻は一斉に礼砲を鳴らし、波止場にひしめく群衆は歓声 を上げて、日の丸を打ち振った。このたびのニコライの訪日は、ウラジオストックで行われるシベリア鉄道起工式への出席の途次の立ち寄り である。しかしそこに軍事偵察の意図が秘められているのではという疑念が、日本側の一部にあった。入港はしたものの、復活祭だから という理由で、乗員の上陸はなかった(しかしお忍びで上陸し、買い物をしたとのことである)。5月4日に上陸解禁の後、5日に抜錨 、艦隊は逆コースを取り鹿児島へ向かい、6日鹿児島入港、甲冑姿の武士二百余名の踊りを見、振り袖姿の士族の娘三十余名の給仕を受け ながら島津公の宴席に臨んだ。長崎の後は神戸へ向かうのが順路で、艦隊の鹿児島寄航は不可解で、これが西郷隆盛は生存していて、 この軍艦で密かに帰国したという風説を生んだ。この噂は根強くいくつかの新聞により事実であるかのごとく報じられた。
 6日夕刻6時、艦隊は鹿児島湾を抜錨、夜明けに関門海峡を抜ける。下関港に停泊中の船は、汽笛を鳴らし、門司港突堤には市民・学校生徒 が整列し、花火が両岸から打ち上げられた。9日、午後1時48分、艦隊は神戸港に入港する。ここには、長崎から直行して来たロシア艦隊 の4隻と日本の迎接艦、「武蔵」・「高尾」が待っていた。各艦は礼砲を鳴らし、艦隊旗艦のアゾウ゛ア号もこれに答えた。上陸した 皇太子一行は、御用邸に入り休憩の後、人力車を連ねて、神戸警察の騎馬を先導に出発する。門前には、衆議院議員・県会議員・市会議員 その他二百余人が整列して見送った。皇太子一行は9日夕刻、京都に入り、観劇・宴会等の後、五月晴れの11日朝、琵琶湖遊覧のため、 人力車を連ねて大津へ向かった。三井寺・唐崎と名所を見物し、県会議事堂で昼食の後、京都府警部先導のもと40数台の人力車を連ねて 帰途についた。人力車は、国旗が掲げられ提灯が吊された、町中の2間3尺(4.5メートル)の道を走った。両側は見物の人々でぎっしり と埋め尽くされ、10間間隔で警備巡査が立っていた。先をゆく4台の人力車と、皇太子・ジョージ親王・有栖川宮の乗る3台の人力車の 間隔が次第に開いて来る。下小唐崎町の家並みに入ると、そこに立番していた巡査が、挙手の礼の手を下ろすやいなやサーベルを抜き、 皇太子ニコライの頭上に振り下ろした。これを見た人力車の後押しをしていた青年が巡査に駆け寄り、その横腹を突く。巡査はよろめいたが、 再びサーベルを振り上げ、皇太子の頭上に振り下ろした。異変に気づいた車夫は梶棒を下ろす。後続の人力車のジョージ親王が飛び降り、 手に持っていた竹杖で巡査を打つた。巡査の手からサーベルが飛ぶ。先導車の滋賀県警部が駆けつけると、拾ったサーベルでいまや車夫が 巡査を斬ろうとするところだった。「殺してはならぬ」と警部は叫び、犯人を押し倒し、捕縄を掛けた。なんと犯人は同僚の津田三蔵だった。 負傷した皇太子ニコライは滋賀県庁へ運びこまれ、医者が呼ばれ、応急処置が施された。傷は右のこめかみに9センチ、骨に達しており、 もう一箇所、こめかみの下に7センチ、これも骨に達していた。県庁では、静粛を保つため、廊下に布を敷き、全員が裸足か草履で歩く よう指示された。事件発生の第一報は午後2時30分、内務大臣西郷従道あてに打電される。電報を披露された天皇は、顔色を変えて椅子 から立ち上がり、北白川宮能久親王を、天皇名代として、ただちに派遣せよと指示した。ニコライ皇太子は京都へ戻ることを望んだので、 その意向に添い、彼は午後3時50分大津発の普通列車で京都へ運ばれた。


3