皇太子ニコライ 後のニコライ二世
1891年事件直前に訪問した長崎で(長崎市立図書館アーカイブ)

 宮中では宮内大臣が手配して、有栖川宮、伏見宮、松方首相、西郷内相、山田法相、青木外相、樺山海相、陸奥農商務相、大木枢密院議長、 黒田枢密院顧問、その他(外務、内務、陸軍の次官、警視総監、警保局長等)を集めて、急遽、御前会議が開かれた。会議の雰囲気は 周章狼狽というべく、がたがた震えている者すらいた。元老井上馨も駆けつけ、箱根の塔の沢温泉で湯治中の元老伊藤博文にも、岩倉具定 (岩倉具実の子、公爵)より勅命でそちらへ向かうと連絡が入る。一体何の用だと伊藤が夕飯をたべていると、そこに松方総理の電報が届く。 「事容易ナラズ直チニ上京スベシ」と結ばれていた。伊藤は箸をからりと捨て、小田原で岩倉と合流し、国府津午後11時10分発の汽車 (東海道本線は明治22年に全通したばかりだった)で、午前1時40分皇居に参内する。天皇はすでに寝所へ入っていた。徹夜の 土方久元宮内大臣より伊藤が詳細を聞いていると、侍従が来て、御寝所へとの天皇の命を伝えた。伊藤が御寝所へ赴くと、天皇は事態を深く 憂慮している、事件解決に努力せよと伝えた。伊藤は最敬礼して退出する。すでに3時を廻っていた。夜明けと共に、天皇は皇后と共に、 お召し列車で新橋停車場を出発した(午前六時三十八分)。皇族・元勲・大臣、その他多くがこれを見送った。
 「明治二十四年五月十二日午前一時、真夜中の兵営に非常ラッパが鳴り渡った」(「城下の人」石光眞清)。石光眞清の勤務する近衛歩兵 第2連隊へ大津事件の第一報がもたらされた瞬間である。石光眞清たち週番士官8名は週番中隊長の前に整列する。中隊長は大津事件勃発 を告げた。班に戻った石光少尉は命令を 下士官一同に伝達する。聞いているうちに下士官2名はふるえ出し、復命もできず歯をかちかちと 噛み鳴らすだけだ。深夜の営内はたちまち騒然とする。小雨降る営庭を灯火が走り廻り、帯剣・銃を取る響き、上ずった命令・怒声の復唱、 やがて軍装した兵は雨の営庭に整列する。点呼。兵が一名足りない。部屋に戻ると一名の兵がベッドの下で泣いている。班長が引きずり出し、 ビンタを食わせようとするのを、石光少尉は押しとどめ、士官室で訳を聞くと、「正装」を「戦争」と聞き誤ったのだと判明した。 人口三千五百万、陸軍6個師団、海軍はほとんどなきに等しい日本は、ロシヤ人の目に「七五三のお祝いに軍服を着た鼻たれ小僧」に見える だろう、そういう国と戦争をする、石光少尉は兵士の恐怖に理解を示した。
 事件翌日、5月12日早朝、6時10分、天皇は土方宮内大臣等を従えて出御。宮城から新橋駅までの沿道は、市民たちが垣を成した。 憂い顔の陛下の横顔を拝し、「心打たれて目頭を拭う男たち、顔を両手に埋めて拝む女たちの姿が多く見られ、霧雨に濡れた私(石光少尉) の頬にも涙が伝わった」(城下の人)。
 「露西亜と言へば、オソロシヤ」という地口がはやり、一万通を越える見舞状が露国公使館へ殺到し、全国の神社・仏閣は平癒祈祷を行い、 茶屋・料理屋は鳴り物を停止した。ロシヤ軍艦の乗組員が上陸し、乱暴狼藉至らざるなき状態を呈したが、その報道記事も差し止められた。 5月19日、ニコライ皇太子を乗せた軍艦と随伴艦5隻は神戸港を抜錨し、23日に無事ウラジオストックへ入港した。ニコライ皇太子 の軍艦が出港したほぼ同時刻に、京都府庁門前で白布を敷き、死後見苦しくないように両足を手拭いで縛った女がカミソリで喉を切り、 「苦しい、苦しい」と呻いていた。門の脇の番所には、「千葉県畠山勇子より露国大臣」、「日本政府御旦那様」と宛名書きをした2通 の書面が差し出されていた。露国大臣宛てのものは、「ロシヤ皇太子が東京へ入って、『ゆるゆる御養生あそばされ候わば』日本国民として これ以上嬉しいことはありません」と記されていた。血の噴出は止まず、やがて彼女は絶命する。27歳だった。山形県最上郡金山村では、 村民は今後、「津田」、「三蔵」という姓・名を名乗り得ないと村会議決した。


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