北村透谷、ミナ夫妻

 新聞は津田三蔵を等しく「狂人」、「狂漢」と書き立てた。しかし彼は狂人ではなかった。大津病院長の鑑定書も「精神病ノ痕跡ヲ留メズ」 と結ばれていた。犯行の動機としては、彼が漏らした「今度、露国皇太子ガ来ラレルソーナガ、ソレニハ西郷モ共ニ帰ル由。西郷ガ帰レバ、 我々ガ貰ツタル勲等モ剥奪サルベシ。困ッタコトダ」が真実に近いとされている。来日した露国皇太子はまず東京に来て天皇に挨拶すべき なのに、鹿児島などへ寄ったのも西郷帰国説を裏書きするもので、また長崎、鹿児島、京都、滋賀経由でゆるゆると上京したのも、他日の 日本侵略のための下調査と考えたようである。駐日ロシヤ大使は津田三蔵を極刑に処せと求め、後藤象二郎(逓信)・陸奥宗光(農商務) 両大臣は、刺客を雇って密かに殺し、病死としてはと提案し、伊藤博文(元老)に峻拒された。大審院長は、4月8日に就任(前任者病没) の児島惟謙で、就任3日目でこの大事件だった。彼はあらゆる圧迫に抗し、謀殺未遂・無期徒刑の判決を下し、司法権独立を守った。 津田三蔵は北海道の釧路集治監へ送られ、収監のまま、同年9月30日に急性肺炎で病死した。
 日本中が大騒ぎをしたこの明治24年4月から5月に掛けて、透谷はどうしていたか。櫻井明石(めいせき)によると、透谷は19年から 20年に掛けて、横浜で輸入商品の思惑をやり失敗し、金銭的損害を蒙ったらしい。20年の夏には、石阪ミナ(19年に洗礼を受けている) との恋愛が始まり、同年8月21日に、厚生館でワーレンスの講演を聞いて、「是より眞神の忠義なる臣下たらん事をも決意せり」と回心の 手記を残している(平岡敏夫「北村透谷研究 評伝」)。正式に洗礼を受けるのは、21年3月で、日本基督一致教会(23年12月に 日本基督教会と改称)の数寄屋橋教会で、牧師田村直臣の手により授けられた。しかし23年1月頃から、透谷は同教会へ顔を見せなくなり、 26年4月には数寄屋橋教会を離脱し、麻生基督教会へ転会する。理由は教会の内紛と言われている(「キリスト者としての透谷」 現代日本文学大系6「北村透谷・山路愛山集」所載)。
 彼がキリスト教徒に至る経緯を辿ると、宣教師との接触が挙げられる。明治20年頃、彼はアルバイトとして、加奈多メソディスト派宣教師 イビー(C.S.Eby)の翻訳や説教の草稿作成を手伝った。櫻井明石と知り合ったのも、このイビー方である。ついで、英国フレンド派の 宣教師・コサンド(明治18年来日)の協力者として来日(明治19年)したブレスウエート(George Braithwaite)が22年に翻訳者募集 の新聞広告を出すが、これに応募し、採用される。彼らを通して、透谷は普連土教会との関係が密接になり、同教会へ入会こそしなかったが、 やがて普連土女学校へ就職(明治23年)するきっかけとなっていった(前号御参照)。明治20年に開校した同校は、この年(22年) に三田聖坂上に新校舎を落成し、津田仙により「普連土女学校」と命名されたばかりであった。フレンド派はみずからを友会徒(Friends) と称する所からこう呼ばれるが、祈りの際に激しく身を震わせるところから、クエーカーの別称もある。
 この明治22年という年は、年末(11月)に、透谷が加藤萬治(かずはる)らと共に、日本平和会を立ち上げたということからも意義 深い年であった。


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