文筆家としての彼のスタートは、この22年4月に「楚囚之詩」を自費出版することから始まった。 22年7月に透谷の「『日本の言語』を読む」が「女学雑誌」に掲載(前号御参照)され、これが彼と同誌との関わりの最初となるが、 その内容はこの「女学雑誌」168号に掲載された、佐藤寬の講義を八木某が筆記したと称する、「日本の言語」という文章への批判 であった。この「日本の言語」は奇っ怪な文章で、その説くところは、英語は欧州の各言語が入り混じった折衷語だからダメで、日本は 海に囲まれ、「維新前までは別に交際したる国もなく」、「独立孤独でありたれば国語の乱るる謂われなし」、ゆえに優れているという 趣旨で、筆誅を加えるのもばかばかしい文章である。これ以降、透谷の文章が「「女学雑誌」に掲載される回数は増えていった。明治24年 5月29日には、前年の10月から孜々として書き継いで来た「蓬莱曲」を自費出版する。6月1日には、横浜の山手公会堂で「ハムレット」 が外国人によって演じられ、それを観に行く。日本人観客は二人だけで、もう一人は坪内逍遥だった。六日後に、透谷は逍遥をその自宅に 訪問する(6月7日の日記に「坪内雄蔵君を大久保に訪ふ。専門学校にありて世話になりし故」と記されている。すでに面識はあったの である)。またこの年の夏、彼は本郷龍岡町の櫻井明石宅で、将来論争相手となる山路愛山に逢う。愛山はすでに「楚囚之詩」を読んでいて、 さらに櫻井明石より「蓬莱曲」を贈られ、二人の交際はここから始まった。

 新聞・テレビに朝鮮問題がかまびすしい。金正日の栄養の行きとどいた丸顔ともすっかりおなじみになった。実を申すと筆者は昭和10年 朝鮮生まれの引揚者で、逓信省の役人だった父の転勤に伴い、生まれてから6歳までは京城、国民学校1年生は平壌、2年生は釜山、3年生、 4年生はまた平壌、5年生は全州(そして引揚げ)というあわただしさをあの国で過ごした。テレビに青瓦台が映ると、おつ朝鮮総督府官舎 だと、近くの大和町に住み、あのあたりで遊んだ思い出がよみがえる。平壌が映ると大同江は、牡丹台はと目で探している。暮夜ひそかに 口ずさむのは平壌38連隊軍旗祭の歌である。
      大同江の水清く
      香りゆかしき牡丹台
      高麗千年の夢の跡
      今ぞ慈仁の治を受けて
      春繚乱の桜花
      熱き心に内鮮の
      つわもの集うわが部隊
      軍旗の光かくしゃくと
      精鋭庭に満ち満てり
      血潮は躍るいざゆかん

 テレビで見る金正日大元帥様は、満面の笑みでロケット発射をご覧になっておられる。はて、人口たった2515万人(Wikipedia調べ) のあの国が、どのようにしてあの工業力を培ったのだろうか。筆者の記憶にある平壌の工場は鐘紡・日穀で、近所に住む勤め人もそこが多 かった。水豊ダムの完成も昭和19年で、とてもテレビの画面で見る壮大なロケット群を製造する工業力は当時なかった。北の鉱・工業、 南の農業と言われていたが、筆者にとってそれはひもじさの代名詞である。戦時下の平壌の配給は、高梁・黍等が多く、父が農村に行って 統制外の玉蜀黍を大量に買って来たのを代用食としたり、晩秋の郊外へ父と兄の3人連れで出掛けて、リンゴ(北の名産である)をリュック 一杯詰めて来たりした。「マンセー、マンセー」の大歓呼の中を行進するロケット群を見、「量産だ」という大元帥様のおコトバを聞き、 ハテ、北朝鮮はどこからその経費を捻出するのだろうと小首をかしげざるを得ない。   


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