北村透谷・ミナ夫妻

 明治21年11月、石阪ミナと結婚した透谷は、新婚生活を京橋区弥左衛門町の親の家の二階で始めた。 明治14年から18年にかけて、不景気に泣いた世間は、明治20年から22年にかけて一転好景気に沸いていた。しかし北村家では、 当主北村快蔵が、19年1月付けで、大蔵省(記録局四等属・月給40円)を免職となり、一家は快蔵の妻ユキが営む煙草屋の収入 13円余で生活せねばならぬという苦況だった。明治20年夏、透谷は一山当てようと横浜で相場を張るが、思惑は見事に外れて しまう(前号御参照)。
 透谷が21年3月に受洗・入信した数寄屋橋教会(日本一致教会、後の日本基督教会、牧師田村直臣)はその後、内紛を起こし、 透谷の足は教会から遠のいて行った。代わりに、翻訳・通訳の仕事を始めたフレンド協会へ彼の親近感は増し、その結果、23年11月から、 同教会所属の普連土女学校で、英語を教えるようになった(前号御参照)。
 フレンド派は17世紀に英国のジョージ・フオックスによって創始された、信仰箇条のないキリスト教の一派で、入会儀式の洗礼を行わないので、 正統派キリスト教徒から異端とみなされている。激しく身を震わせて祈るところから、「クエーカー」の別称がある。敗戦後の日本にララ物資を贈って くれたのもフレンド派だし、戦後、GHQのボナー・フェラーズ准将がクエーカーで、彼の斡旋により同じくクエーカーのエリザベス・ヴアイニング夫人が 明仁皇太子の家庭教師となった。1947年に、米国フレンズ奉仕団と英国フレンズ協議会に、ノーベル平和賞が贈られている。このフレンド派の 米国「キリスト友会婦人外国伝道協会」が、明治18年、日本へ最初の宣教師ジョセフ・コーサンドを派遣し、日本での布教を開始した。 明治20年、当時米国留学中の内村鑑三・新渡戸稲造の助言に従い、在日フレンド派宣教師により、女子教育を目的とした学校、 普連土女学校が創立される。校名は、津田梅子の父、津田仙が「普(あまねく)世界の土地に連なる」の意を込めて命名し、2年後には 三田功運町聖坂上(現在地)に新校舎が落成された。透谷はこの新校舎に教師として通い始めることとなる。


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