星野天知

 透谷は明治22年に投稿した「『日本の言語』を読む」が「女学雑誌」に採用されたのを始めとして、以後同誌に掲載される文章が増えていった。 「女学雑誌」は明治18年創刊で、初代編集人近藤賢三がすぐに亡くなったので、以降、巌本善治が編集長として采配を振るっていた。 「女学雑誌」には、透谷の他に、星野天知、島崎藤村、平田禿木等の文章が掲載された。
 明治23年8月末日の昼下がり、紺絣の単衣に白木綿の兵児帯、白ヘルメット、鼻下に髭を蓄えた紳士がステッキを振りながら、日本橋大通りを 闊歩していた。透谷である。京橋日吉町にある民友社を訪れ、徳富蘇峰から原稿依頼を受け意気軒昂たるものである。彼の姿はやがて日本橋区 本町四丁目の砂糖問屋の店先に現れた。星野天知の家である。店先にヘンな男が来て、自分に会いたいと言っていると店員に言われ、天知は 奥から出て来た。客間(六畳の茶席)へ行ってみると誰もいない。すると「やあ、文覚さんですか」と、客便所から帽子をかぶったままの男が手を拭き ながら現れた。二人は初対面である。痩せ型の目が敏感に動く人というのが天知の初印象だった。透谷は天知が「女学雑誌」に書いた文覚上人 を読んで、急に会いたくなったのだと眞情を面にあらわして言った。それから二人は天知の書斎で、逍遙・鴎外の没理想論争から始まり、日が暮れ、 夜食が出て、蚊帳が吊られても止むことなく、透谷は水を入れた洗面器を枕元に置き、頭を冷やし、煙草を吹かしながら話続けた。今の社会は 思想が衰えている。宗教家は何をしている。学者は没理想で、理論をこねくり回している、と透谷は慷慨した。朝飯を食べてから、透谷はようやく 辞去した(規則正しい家人等は蔭でブツブツ言ったと天知は述べている)。
 その後、天知・藤村・禿木等は、巌本善治の編集方針にあきたらず「女学雑誌」を離脱し、明治26年、雑誌「文学界」を創刊し、透谷もこれに 参加することになった。「先鋭で敏活」過ぎる透谷は、「たちまち同人間に気にくはぬ人」が出て来るだろうと天知は予測し、透谷を同人とせず、客員 に留めた。天知の慧眼は的中したが、透谷は島崎藤村とだけは無二の親友となった。天知も透谷には敬して遠ざけるという態度だったが、天知が 勤めている明治女学校に、26年11月から、島崎藤村の後釜として、透谷が勤めるようになり、天知は嫌でも彼と顔を合わせることになった。 (明治女学校は九段坂上の飯田町3-32にあったが、25年にその場所を暁星学園へ譲り、麹町区下6番地へ移転した。)

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