初授業の日、生徒に透谷を紹介する役は天知が務めた。透谷は教室に小走りに入って来て、ぴょこんと頭を下げ、右手に持った英書を教卓の上に 投げ出し(左手は懐手のまま)「これから一緒に勉強しましょう。どうかよろしく」と切り出した。その後、通学途中、人力車の中で読書にふけり、袴が 脱げ落ちたのも知らず、着流し姿で学校に現れ、天知が袴を貸してやると、大笑して受け取るという一幕もあった。
 透谷の授業ぶりについては、「黙移 相馬黒光自伝」に次のように描かれている。生徒の中に、齋藤秀三郎(英語学者、仙台藩士族出身)の妹の 齋藤冬子がおり、英語が良くできた。「透谷の時間となると何故かお冬さんが一番に冴えて見え、そして最も手応えがある、すると透谷もやはりお冬さん を目当てにして講義をするという形になります。熱心に聴く、真剣に質問する、熱心に講義し、力をこめて応える、この距離がだんだん接近して、 いつの間にか透谷とお冬さんは一つ机をはさんでむかい合い、まるで一問一答の形で教え、質し、論ずる。級友は其の二人の一問一答から聴いて、 非常に興味深く勉強するという有様であったということです」、「ある日透谷は、かぜを引いしきりに涕が出るのをすすりすすり講義していました。そのうち 涕が落ちそうになると、お冬さんは懐から紙を探って差出す、透谷がそれを受取って涕を押える、しかも講義は白熱の状態でつづけられており、その紙を 渡すのも受取るのも無意識になされているという風で、総て以心伝心、これ程の一致を以て教え教えられるのですからお冬さんの感激も察しられます」。 同書によると、齋藤冬子は背が高く、その背に相応して見事な体格で、リーダーとしての素質を備えていた。そのため、その後、日本で最初の学校 ストライキが起こった時、首謀者に祭り上げられ、放校の憂き目に会った。彼女は仙台の実家に帰り、そこで結核を病み、透谷の自死後死ぬが、 湯灌のため、病衣を脱がせると、懐から透谷の手紙が出て来た。
 透谷の定期刊行物への寄稿は、明治22年7月の「女学雑誌」が始まりで、それ以降も「平和」・「基督教新聞」の例外を除いて、「女学雑誌」のみ である。明治25年10月に至って、初めて透谷の文章が徳冨蘇峰主宰の雑誌「国民之友」169号へ発表される(「他界に対する観念」)。その論評は 鋭利で皮肉で、斉藤綠雨の漫罵と比べられるが、「綠雨に無い高韻な理想があって、下卑た文句を厭ふた」と星野天知は評している。 


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