透谷旧居があった辺り

 明治5年生まれの島崎春樹(藤村、四男)は明治14年(10歳)に、兄友弥(三男、12歳)と共に、長兄秀雄(23歳)に連れられて上京し、 長姉園子の嫁ぎ先である高瀬薫家(銀座裏の煉瓦造りの家)に寄寓し、泰明小学校に通学する。だがやがて高瀬家は家業の都合で木曽福島へ 引っ越し、春樹はその後に来た人に預けられるが、この一家と合わず、同じ銀座裏の吉村忠道(弁護士を志望するが、試験に落ち続け、その後 雑貨商に転じる)に移り、そこで8年間暮らし、三田英学校(明治19年入学、後の錦城中学)へ通った。その間、明治16年には父島崎正樹が 上京して来て、再会するが、その父はその後、発狂し、明治19年11月、郷里の座敷牢の中で死去した。明治20年、16歳の時、吉村忠道氏 が日本橋へ引っ越したので、島崎春樹は三田英学校から神田共立学校(後の開成中学)へ転校し、同年9月、明治学院に入学した。21年6月、 彼は高輪の臺町協会(牧師・木村熊二)で洗礼を受ける。明治24年6月に明治学院を卒業した彼は、横浜で開業した吉村忠道の雑貨屋 「まからずや」を手伝うが、その年の秋には横浜を去って上京、巌本善治の「女学雑誌」の編集を手伝うこととなった。生計はそれだけでは成り立 たないので、25年9月末から、明治女学校で教職にもついた。しかしここで、生徒佐藤輔子と恋におち、自責の念から明治女学校を辞任し (27年4月に復職する)、後任に透谷を推薦し、関西へ漂泊の旅に出た(教会には退会届を提出した)。
 この辺の経緯は、藤村の後年の作「桜の実の熟する時」(大正2年に書き起し8年に完成)に記されている。藤村も透谷の「恋愛は人生の秘鑰なり」 (厭世詩家と女性)の一句に心打たれた一人で、「これほど大胆に物を言った青年(わかもの)がその日までにあろうか」と記し(同上)、巌本善治を 介して透谷に会う。「逢って見た青木(透谷)は、思ったよりも書生流儀な心易い調子で、初対面の捨吉(藤村)をつかまえて、いきなりその時代の 事を言い出すような人であった」(同上)。「こういう友達と一緒に、捨吉(藤村)は薄暗い世界を辿る気がした。若いものを恵むような温暖(あたたか)い 光はまだ何処からも射して来ていなかった」(同上)。この小説は、捨吉(藤村)が春の雪を浴びながら漂泊の旅に出るところで終わっている。
 「平和会(Peace Society)」は1815年にニューヨークで設立され、イギリス・スイス・フランスと波及し、やがて日本に及び、明治22年11月に、 「日本平和会」が加藤萬治らによって設立された(前号御参照)。25年3月には機関誌「平和」が創刊され、透谷は主筆に就任する。同年5月 17日、透谷は高輪東禅寺へ引っ越した。ここで6月1日に長女英(ふさ)子が誕生し、透谷は父となる。

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