迎恩門(1896年までソウル市に存在)
大清帝国の使者を迎えるための門
ウィキペディアより


高宗の求めに応じて韓服を着た メレンドルフ
ウィキペディアより

 朝鮮では、甲申政変(明治15年、1882)直後の8月に、高宗は教書を下し、邪教は斥けるが開化政策は進める方針(東道西器論)を国民に 示した。(この改革案・「善後六条」は事前に李鴻章に呈示され、意見を仰いでいるように、清への従属も明白である)。同年9月、高宗は北京へ 使節を派遣し、北京に朝鮮の出先機関を設置したいと願い出るが、清国は宗属関係は従来のまま、出先機関設置は許さぬと拒否した。
 朝鮮国内でゆるやかな改革が続く。明治18年(1885)、京城に洋式病院・広恵院(その後、済衆院と改称)が新設され、米人医師 が運営に当たる。翌19年(1886)、汽船3隻が購入され、税穀運搬に使用された。同年、洋式学校・育英公院(授業を英語で行う)が新設され、 米人教員により、両班子弟へ英語で教育が行われる。翌20年、練武公院(士官学校)設立、米国軍人が洋式訓練を施す。しかし、学生は 両班内の武班出身でありながら、厳格な訓練を喜ばなかったと言われる。洋式軍隊は明治21年(1888)年に従来の6営から規模を大にした 3営に編成替えされ、また江華島・平壌にも洋式軍隊が配備された。同年、漢城(京城)~元山間に電信線(北路電線)が新設される。  朝鮮を属国視する清の態度は高宋・閔妃にとって面白くない。清の干渉増大を封じる手として、明治21年(1888)、朝鮮はロシアと 朝露陸路通商章程を結び、豆満江岸の慶康を対ロシア窓口として開いた。ロシアとの交渉は外交顧問・メレンドルフ(朝鮮の外交窓口・統理交渉通商 衛門の次官)が当たった。
 メレンドルフ(Paul George von Mollenndorf)は、プロイセン貴族出身の言語学者で、髙宋が李鴻章に外交顧問として招聘すべき人物の 推薦を依頼して、朝鮮に送られて来た人物である。1884年(壬午軍乱の年)12月に朝鮮の外交顧問・「外務協弁」に任命された (朝鮮名・穆麟徳を名乗る)。朝鮮半島における中国と日本の影響を均衡させるため、ロシア勢力の朝鮮半島への導入を図った。これに対し、 李鴻章が明治18年(1885)、朝鮮政府へメレンドルフ解任を要求し、彼は解任されている(彼は財政困難の解決策として、「当五銭」の悪貨鋳造 を当局へ勧めており、金玉均らが猛反対し、対案として、日本からの借款を進言している)。


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