チャールズ イービー

 こちら日本では、明治20年8月19日、北陸から北関東に掛けて皆既日蝕が起こった。あいにくの悪天候だったが、新潟県三条市では天候に恵まれ、 日本で初めてのコロナ撮影に成功した(これを記念して、三条市永明寺山(ようめいやま)には日蝕碑が建てられている)。
 この日蝕の八月、透谷は横浜での商業に失敗し、キリスト教への入信を自覚する(翌21年3月4日、受洗)。22年4月に透谷は「楚囚之詩」 を自費出版し、通訳として、麻生霞町の牧師イービー(Charles Samuel Eby)方へ出入りするようになり、そこでイービーの日本語教師を勤める 櫻井明石と知り合った(明石は月給25円でイービーの日本語教師を勤めていた)。  櫻井恒太郎(号:明石、慶應元年生れ)は、祖父が白河藩の普請奉行であった。戊辰戦争の際、一家は若松城を脱出し、農民にかくまわれて、 官軍の目を逃れるという苦難を舐めた。父櫻井銀弥(しんや)はその後(明治3年)、高田藩(高田県となり、後に新潟県に接収される)に小職を得て、 一家は長屋住まいの身となる。明治8年、恒太郎(明石)は親戚を頼って上京し、11年、開校したての府立第一中学へ入学し、17年、東京大学 付属の古典講習科漢書課へ入学し、20年に卒業した。同年3月、下谷練塀町に引っ越した恒太郎(明石)は、近所の下谷教会へ日曜毎に通い、 8月に牧師・外山孝平により、洗礼を受けた。卒業はしたものの、就職もままならぬ明石は、牧師イービー(Charles Samuel Eby)の日本語教師 (月給25円)を勤め、この牧師イービー邸(麻生霞町)で、透谷に紹介された。「顔面蒼白、深い物思ひの有る神経質の人らしく見えた」と明石は 後年語っている(「透谷子を追懐する」(日本文学研究叢書「北村透谷」(有精堂)所載)。
 山路愛山(弥吉)は元治元年(1965)、幕府天文方の子として、浅草で生まれた。一家はその後、維新に遭遇し、静岡へ移住し、愛山 は幼年期をそこで過ごした。明治19年、静岡教会で受洗した愛山は、22年に上京し、東洋英和学校に寄宿する。熱心なキリスト教徒となった彼は、 「直接福音伝道(浅草教会の下廻り)」に従事すると共に、「間接伝道(文学)」をも志すという日々を送った。22年、愛山は偶然銀座の書店で、 「楚囚の詩」という本を手にし、その欝愴とした言葉使いに感銘を受ける。24年、彼は愛知県袋井で、伝道活動に従事中、友人の櫻井明石から、 「楚囚の詩」と同じ作者の「蓬莱曲」という本を贈られた。そしてその年の夏、愛山は本郷の料理店で、明石の紹介で、著者透谷に会う。当時、愛山 は「護教(メソジスト教会三派の共同機関誌)」の事実上の主筆を勤めていた。二人の交際はこうして始まった。

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