明治22年は凶作で、米価は高騰し、低所得者層は飢餓線上をさまよっていた。捨て子と浮浪者が増え、商店の表戸には「手の内無用」の 張り紙が貼られる。それに輪を掛けて悪疫が流行した。米価は高騰しても一円で一斗買えるまでであって欲しいのに、「米九升七合なり」と透谷は 明治23年9月24日の日記に記している。  明治24年は5月11日に大津事件(「自由民権(23)」御参照)発生の年で、松方内閣が5月6日発足した直後の出来事であった。 事件落着後の6月1日に、松方内閣の陣容が発表されるが、いったん決定したことを他人の入智慧でころころ変える渾名「後入齋」の首相松方正義 (薩摩出身)に代わり薩長内閣を切り盛りしたのは、内相・品川弥二郎だった。長州・松下村塾出身の品川「弥治」は、「事に臨みて驚かず、 少年中希に見る男子」と吉田松蔭に称揚され、松門の先輩、久坂玄端・高杉晋作の尻にくっついて、幕末動乱の巷に姿を現す。

    宮さん、宮さん、お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな、   あれは朝敵征伐せよとの錦のみ旗じゃ知らないか   トコトンヤレ トンヤレナ

 薩長軍(官軍)はこの軍歌を高唱しながら、東北諸藩を蹂躙し、「白河以北、一山三文」と言われる、長く続く東北地方の疲弊をもたらしたが、 この軍歌の作詞者が品川弥二郎だった。
 松方内閣は民党の「民力休養論」に対抗して、「民力育成論」(積極政策)を主張し、明治24年の第二議会において、8350万余円の予算案 を堤出した。予算委員長は、フランス留学後、自由民権運動へ身を投じ、明治23年(1890)の第一回衆議院選挙で、佐賀より立候補・当選した 松田正久である。彼は提出予算案から794万円を削減した(中でも建艦費・製鋼所費は全額削減した)。これに憤慨した海軍大臣・樺山資紀 (元薩摩藩士)は、12月22日の衆議院議員本会議で、「薩長政府とか何政府とか云っても、今日国の此安寧を保ち、四千万の生霊に関係せず、 安全を保ったと云うことは誰の功である」とぶち上げた(いわゆる「蛮勇演説」)。、薩長藩閥攻撃を手ぐすね引いて待っていた民党議員はドット笑いだし、 われ先に起立して、その非礼を攻めた。12月25日の本会議では、さらに追加して98万円余が削られ、ついに政府は、「このような議会に国事を託す ことはできない」との理由を挙げて、議会解散を要請、認可を得る。
 第2回総選挙は明治25年(1892)2月15日と決定した。内務大臣・品川弥二郎は,民党は破壊主義者集団で、これを弾圧するのは国への 忠誠だ、高圧手段をはばかるなかれと地方長官へ命じた。次官に、六歳年下の同郷人・白根専一を選ぶ。堂々たる体幹の白根は、顔に大きな 紫の痣があり、品性・廉潔の評高く、「一時とかくの非難を蒙りたりとは謂へ、自己の所信を断行して、中外の物議を意に介せず、堂々旗鼓の陣を張り、 敵と雌雄を決せんとする、男性的気概と抱負は、けだし群鶏中の一鶴たるの観あり」と井関九郎の「近代防長人物誌」に称揚されている。かくて未曾有 の選挙干渉が起こった。 


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