品川弥二郎
国会図書館・近世名士
写真より

 県・郡・市町村すべての行政機関に、民党側候補者の選挙運動を妨害し、政府与党側候補者の運動を援助せよとの通達が密かに流された。 いたる所で流血事件が起こる。期間内に死者25名、負傷者388名が出た。そこまでやって、選挙結果は、政府側の数が若干ふえただけで、民党優勢 の大勢に変化はなかった。2月22日、首相官廷で開かれた元老会議で、伊藤博文は内閣を激しく非難し、松方首相に関係者の処分を求める。 この要求が斥けられるや、彼は枢密院議長の職を辞し、小田原へ隠棲してしまった。品川弥二郎も責任を負って辞職する。その際、「おろかなる身をも 忘れて天地(あめつち)に誓ひし事のはづかしきかな」と詠んだ。当初より反対だった農商務相・陸奥宗光も同時に辞職する。
 5月6日に開かれた第三回帝国議会はこの後、6月14日に閉会した。その2日後の6月16日に、民党への対抗団体として代議士70余名、院外 団数百名で構成される国民協会(会頭:西郷従道)が発足し、品川弥二郎はその副会頭に就任した。
 透谷は明治22年の「楚囚之詩」につづいて、24年に「蓬莱曲」を自費出版し、「女学雑誌」に掲載される彼の論文も次第に増えていった。そして 25年2月、「女学雑誌」に掲載された「厭世詩家と女性」が大きな反響を呼んだ。
 この年の7月27日、透谷は7年ぶりに川口村の秋山国三郎を訪問する。国三郎は留守だったが、秋山家に泊まり、翌日、国三郎の孫たちと 網代鉱泉へ行った。、夜はふたたび秋山家に泊まり、帰宅した国三郎と語りあい、翌日、国三郎と高尾山へ行き、その夜は八王子に一泊した。 翌日大矢正夫を尋ね、三人で百草園に遊ぶ(なんとなく大矢は不承不承という感じがする。明治18年6月に大矢らが、上層部の命を受け、強盗決行 を決意した時、透谷へも参加を呼び掛けたのに、透谷は僧形に変身してこれを辞退した。それ以来、大矢は透谷へ隔意を抱いていたのではないか)。

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