ウィキペディアより

 江戸時代の元治元年(1864年)、朝鮮25代目の皇帝・哲宗には男の子が五人いたが、いずれも夭折し (跡を継がぬよう互いに殺し合い)彼自身も32歳で突然死した。族譜を精査した結果、21代・永祖の 玄孫・李是応に李命福という子供が発見され、この子(12歳)を帝位につかせることとした。 かくてラッキーに全州李氏の命福李戴晃(次男)が王族宗家を継ぎ、元治元年(1864)1月20日、 冠礼式を挙げる。高宗である。父親の李是応(イハウン)には「興宣大院君」という称号が与えられた。 「大院君」という称号は、国王が即位した際、すでに死亡している国王の実父に追贈される称号であるが、 ここに初めて生存している(政治的影響力を行使し得る)「大院君」が出現した。
 大院君は1820年(文政3年)に、朝鮮全土に散らばる多くの王族の一家族(全州李氏、王族の傍流) の子(四男)として、漢城府(現在のソウル)に生まれた(明治天皇と同年の生まれ)。 髙宗出生時(1852年(嘉永5年))、すでに32歳(髙宗即位時には43歳)である。 髙宗が幼いので、彼が政治の実権を握る。貧民窟育ちの彼は「市井無頼の徒」であった。 しかし市井育ちの彼の利点は中央・地方の小役人間に、交友のネットワークを持っていることだった。 政権を握ると彼等を機敏に組織し、強大な権力を構築する。
 大院君が王朝に出仕し始めたのは26歳の時であるが、仕事は実務畑(厨院・典医監・造紙所等)で、 儒教色の強い朝鮮王朝では低く見られる職業で、王朝中枢にいる人々からは軽侮の眼で見られていた。 彼は厭わずこの職務に精励し、独自な人脈を作り、それは後日、彼の大きな政治資産となる。 当時の大院君について、「近世朝鮮政鑑」は、「才知は人に過ぐるも、家貧しく、日々の糧にも事欠くほどだった。 性格は軽佻放蕩にして、無頼幇間の類と妓家に遊ぶのを好み、往々にして不逞の輩によって辱められるところとなった。 人々は皆、このような彼と付き合おうとしなかった」と記している。「摂政」の地位を与えられ権力行使が可能となると、 大院君は種々の改革を断行する。即ち、書院撤廃、無名雑税廃止、備辺司廃止、法典編纂等であり、安東・金氏勢力を 抑えての王権強化、鎖国政策の徹底(カトリック教徒弾圧)であった。


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