1864年アラバマ州ブリッジポートのジェネラルシャーマン号
米国海軍歴史センター(ワシントン)所有写真

 鎖国攘夷論者だった彼は、当時の朝鮮の国論ともいうべき儒者たちの「衛生斥邪思想」(姜在彦は「西教」=キリスト教的価値観 に対し、「東教」=朱子学的価値観を固守するイデオロギー闘争と表現している)に基づき行動した。「洋夷」は排除すべき、 特に「寇賊の先導」である西洋人宣教師は排斥されねばならぬという考えである。政権を握った大院君がすぐにやったことは カトリック弾圧である。清国では1840年(天保11年)から1842年に懸けて第一次アヘン戦争が行われ、北上した英仏軍 は北京へ達していた。西洋のオランケ(異民族への蔑称)により清国首都が占領され、咸豊帝は熱河(満州)へ逃亡したという噂が 朝鮮に広まり、オランケは次ぎに朝鮮へやって来るぞと人々は動揺していた。オランケが来てもキリスト教徒なら助かるという噂が 広まり、胸に十字架を懸けて歩くことがはやり、カトリック教徒が急増していた。政権を握った大院君がまずやったことは カトリック教徒弾圧である。1866年(慶應2年)、彼はフランス人宣教師9人を含む8000人のカトリック教徒を逆殺した。 この「衛生斥邪思想」は国粋派に受けた。宣教師逆殺への報復として、天津に停泊していた仏艦隊7隻が、1866年10月来襲して 江華島を占領し、漢江を遡行して京城侵攻を試みるが、朝鮮の官民挙国的反撃(特に虎打ち猟師500人による火縄銃攻撃)に阻まれ、 ソウルへは未到達のまま1ヵ月後に撤収した。仏軍はその際、江華島の史庫より、膨大な文書類・金銀49万両を略奪して仏本国へ 持ち帰った(丙寅洋擾)。5年後の1871年(明治4年)、今度は米国のアジア艦隊(5隻)・海兵隊1200人が、 ゼネラル・シャーマン号事件(1866年、通商を求めて平壌の大同江を遡行して来た米商船が焼き討ちされ、乗員全員が殺害された事件) の報復として来襲し、江華島を占領したが、これまた朝鮮側の防御を打ち破れぬまま退却した(辛未洋擾)。意気大いにあがる大院君は 全国各地に、「洋夷侵犯するに、戦を非とするは即ち和なり、和を主とするは売国なり」と記された「斥和碑」 (花崗岩製、1.2~1.8メートル)を建立した。

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