閔妃(びんひ)
小学館デジタル大辞泉より

 だが権勢並ぶ無き昌徳宮の大院君専用門が、1873年(明治6年)、彼の了解なしに突然閉鎖された。髙宗も22歳になったので、 自分は摂政を辞任して隠居するというのが大院君のコトバとして語られたが、実状は皇后閔妃一派による引きずりおろしだった。 コトバどおり、大院君は京畿道楊州へ隠居を余儀なくされる。皇后閔妃は、外戚政治の弊害を知る大院君が、慎重の上にも慎重 を期して選んだ髙宗の嫁だったはずだ。彼女は早く父親を亡くし、兄弟もおらず、美貌で聡明という申し分ない条件で、髙宗と 結婚した時は16歳で、夫より1歳年長だった。従順な嫁のはずの閔妃は、しかし髙宗が成年に達し、自分の意思で政治を行おう とし始めると、すばやくその親政意思を後押しし、大院君から政権を取り上げたのだ。1873年12月、崔益鉉より大院君弾劾上訴 が提出されると、待ってましたとばかり、閔妃はそれを利用して大院君を引きずり落としたのだった。
 国内の不調和は国外へも反映し、対日交渉もギクシャクしていた。日本は1870(明治3)年から1875(明治8)年の5年間に、 ロシアとの樺太問題、清との台湾問題をすでに解決済みであった。しかし朝鮮のみは、形式にこだわり、話が進まない。 日本の強硬派からは「征韓論」が出始める始末だ。この情報が清から朝鮮へ伝わると、朝鮮は慌てて、1875(明治8年)5月に、 釜山の倭館で、日本との交渉に応じた。しかし、朝鮮はまず日本側文書の中の「皇」、「勅」の文字にこだわる。いやこれは国際的に 使用が認められているのだとの日本側の説明で、なんとかクリヤしたが、次ぎに会談相手である外交官・森山茂が大礼服(洋式) を着ていることを難じた。今度は森山が受け付けず、会談は決裂し、森山は帰国してしまった。


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