永宋城を攻撃する雲揚号の海軍陸戦隊
ウィキペディアより

 伝統的交隣国としての日本は西洋諸国と異なり、1404年足利義満が「日本国王源道義」と名乗って国書を送って以来、1590年(天正18年) の第1回朝鮮通信使一行来日から、1592年~8年の豊臣秀吉による朝鮮侵略期の中断を除き、1607年に徳川家康による国交回復、 それ以来12回の訪日を重ねている(最後の12回目は1811年(文化8年))。維新以降も、外交交渉は1875(明治8)年から 始まっている。明治政府としては、朝鮮側が文書の字句や日本側官吏が洋服を着ていることを難じて、成立しないのは誠に遺憾である。 武力で威嚇しろと、同年9月20日、日本軍艦・雲揚号は朝鮮本土と江華島間の水路に侵入した。江華島砲台が砲撃を浴びせると、 雲揚号は応戦し、日本側新式兵器の火力が上回り、江華島ならびに永宗島の砲台は沈黙し、占領された(江華島事件)。
 日本は、「飲料水を求めただけなのに砲撃された」、「国旗を掲げていたのに砲撃された」の二つの理由を挙げて、朝鮮に賠償を請求し、 翌明治9年(1876)年、日本側全権・黒田清隆・井上馨は艦船6隻・陸兵2百を引き連れて江華島を訪れ、2月3日(陽暦2月27日)、 日本・朝鮮間に不平等条約「日朝修好条規」が締結された(朝鮮側代表は、1876年(明治9年)、大院君執政に取って代わった 閔妃一族の閥族政治家集団)。同条約は第一条で、「朝鮮国ハ自主ノ邦」と規定し、朝鮮は藩属国であるとの清の主張を斥け、 独立国と認めている。その後、同趣旨の開国通商条約が朝鮮と欧米諸国との間でも結ばれ、朝鮮は日本へ開国することにより、 資本主義の世界体制へ編入されていった。 金玉均が「謁聖文武科」(科挙)に壮元(首席)で合格し、天下の識者の注目を浴びたのは、まさにこのような激変が起ころうとする 矢先の1872年(明治5年)3月であった。官途についた金玉均は1880年(明治13年)の科挙不正事件に連座して地方へ 配転される躓きはあったものの、まもなく中央へ呼び戻され、30台で勅任官相当の高位に就任する。聡明な彼は封建社会の矛盾 に気づき、朝鮮実学派の学問(禅を基礎とした唯物論的見解)に惹かれてゆき、その新思潮(開化思想)を政治に反映すべきと考える ようになった。やがて開化派は一つの政治勢力となり、金玉均はその中心人物となる。
 開国後の朝鮮の緊急の課題は、いかなる方法で、どの程度まで開国すべきかであった。この課題を巡り、 「穏健開化派」(金弘集、魚充中、金允植)と「急進開化派」(金玉均、朴泳孝、徐光範)の2派が生まれた。前者のお手本は、 清の洋務運動であり、後者のお手本は日本の明治維新である。


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