金玉均 ウィキペディアより

 開国に伴う官制の近代的改革のために、アジアで欧米資本主義の侵略を辛うじて防ぎ独立を保っている日本を参考にしようと、 1881年(明治14年)朝鮮国より40余名よりなる日本の国情視察団が編成され、金玉均もそれに加わった(第1回訪日)。 訪日時の金玉均のお国ぶりについては、民友社「金玉均」に、金が十余人の従者を従えて渡辺宅を訪問した際の渡辺元の描写がある (葛生東介編・民友社「金玉均」)。白衣の朝鮮服に黒い帽子をかぶり、四五尺もある長煙管に随員が煙草を詰めて渡すと、 それをスパリスパリやりながら話をしたとある。金玉均一行が第一次訪日の日程を終わり帰国の途につく1882年(明治15年) 7月23日、朝鮮の首府・漢城(現ソウル)で兵士の反乱(壬午(イモ)軍乱)が起こり、彼等は神戸港で足止めをくらった。
 壬午(イモ)軍乱は軍人への俸給米不払いが原因で起こった。朝鮮では、1881年(明治14年)、国家機構改編の一つとして、 5軍営から80人の軍人が選抜され、近代的軍隊としての別技軍が創設された。訓練官はソウル日本公使館勤務の堀本禮造(工兵)少尉で、 通訳を介して、指導に当たった。別技軍兵士の待遇が良いので、人々は「倭別技」と陰口をきいた。別技軍生徒は全員両班出身だが、 堀本少尉の助手を勤める者の中には両班出身でない者もいる。そういう教官助手に対し、生徒は「お前」呼ばわりをした。 憤慨して制服を脱ぐ教官助手も出た。他方、軍人への俸給米遅配は、すでに11月分にも及んでいる。下層軍人に鬱積する憤懣を察した閔一族は、 取り敢えず慰撫するため、俸給米1ヵ月分の特配を実施した。ところがこの米に砂やぬかが混じり、量も規定より少なかったので、 怒った軍人たちは給米係の官吏を殴りつけた。殴った軍人たちは逮捕され、死刑を宣告される。これが(1882年、明治15年) 7月19日のことである。同僚軍人は救命運動に動くが、これが膨れ上がり、ついに7月23日の動乱(壬午(イモ)軍乱)へと発展した。
 軍人たちは直属の上司・閔謙鎬を殺し、官庁・大官邸宅を襲い、これに新式軍隊の別技軍が加わり、上官の堀本少尉を殺し、やがて ソウル市民まで加わり、日本公使館へ向かった。花房義質公使一行は公使館に火を放ち、大雨の中を夜中移動して仁川へ出たが、 そこでふたたび襲撃され、英国測量船・フライング・フィッシュ号に救われ、7月30日、やっと長崎に戻った。東京からは馬関 で命を待てとの指示が発せられ、待つ内に8月7日、井上馨外務卿みずから出張して来て、その指図の下、花房公使は、陸軍は小倉連隊、 海軍は金剛・比叡等6隻に護られ、再び朝鮮へ戻る。8月12日仁川着、8月16日、漢城(ソウル)へ入り、花房公使は、朝鮮側と 談判を始める。日本側要求は、公式謝罪・責任者処罰・賠償(50万円)であるが、50万円などは、李朝政府には工面しようもない金額である。


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