袁世凱 ウィキペディアより

 壬午軍乱の反日性向は閔氏政権の反対に位置する大院君の再登場を促した。反乱軍が昌徳宮に乱入すると、髙宗は大院君に事態収拾を委任した。 明治18年(1885)8月、清国は拉致して清国に抑留していた大院君を帰国させる。大院君には、「朝鮮総理交渉通商事宜」という 肩書で、26歳の袁世凱が付き添っていた。壬午軍乱に際し、真っ先に駆けつけた清軍は、登州(中国内でもっとも朝鮮に近く、 1858年の天津条約で「煙台」と改名し、西欧諸国へ解放された)駐在の呉長慶軍六千で、袁世凱はこの慶軍の参謀(営務處會辯)だった。 彼は科挙(郷試)に3度失敗の後、「雑途」(いわゆる裏口ルートで、「損納」(と称する売官)により官界に入ったのだが、科挙受験 をやめる際、詩を賦して、「大丈夫まさに命を疆埸(国防)に効(いた)し、内を安じ外を攘(はら)ふべし、いづくんぞ齷齪、 筆硯の間に困(くる)しみ、自ら光陰を誤つべけんや」と詠じ、書き貯めた詩文の習作を燃やしてしまった。四書五経(本文43万字余) プラス注釈書をマスターするという無益な勉強を彼がやめたのは、賢明であった。科挙に合格して任官する「正徒」ルートではなく、 「雑途」と呼ばれる裏口ルートがあり(当時は「損納」と称する売官が爆発的に増加した時代)、しかし、それは生涯、日陰暮らしの身 となることを強いる。しかし、袁世凱は恵まれていた。李鴻章の淮軍の武将・呉長慶は袁世凱の養父・袁保慶の義兄弟で、浙江提督に 昇進していた。数え23歳の袁世凱は、明治14年(1881)5月、引き抜かれて、登州へ駐屯する呉長慶の軍隊・慶軍の営務処會辦 (参謀の一人)を勤める。そこで壬午(イモ)軍乱(明治15年7月23日勃発)に遭遇したのだ。
 清朝は満州族が遼東地方に建てた政権で、それが明朝滅亡(1644年)後、中国を支配した。その直前の時代は、大航海時代 (1415~1648)と呼ばれ、中国が産出する絹・綿・茶・陶磁器を求め、新大陸と日本で産出される銀が中国に集った。しかし 中華意識に凝り固まった明朝は「朝貢」という形式を踏まなければ商取引を認めない。これに逆らい密貿易が増え、取り締まろうとする 政府との間に騒擾が激化し、辺境では武装集団が増えた。その一つが遼東地方・満州族の「清」である。1644年、明朝が内乱で滅びると、 漢人の「明」に取って代わり中国を支配する。かくて50万人の満州人が1億を超える漢人を支配する「清朝」が出現したのである。  


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