壬午軍乱勃発と同時に、清国は行動を起こし、軍艦3隻で代表・馬建忠と丁如昌(水師提督)が8月10日に朝鮮へ赴き、8月20日に、 3千名の兵を率いて漢城(ソウル)へ進駐した。その時、すでに花房公使は国王・大院君へ要求書をつきつけ日本へ去った後だった。 馬建忠は花房公使を追って仁川まで行き、そこで花房公使との会談に成功し、李朝政府と再協議するという確約を取り付けた。この事態 の推移には、清国代表・馬建忠の人柄が大いに影響している。彼はカトリック教徒の家に生まれ、フランスに留学して国際法を習得したという 西欧型知識人(彼の4番目の兄は復旦大学の創設者)で、和平実現には、事態を壬午軍乱以前に戻し、政権を閔妃の事大党へ戻すしかないと 考えていた。8月26日、馬建忠麾下の清国軍は一斉に行動を起こす。壬午軍乱を起こした大院君一派の兵士は掃討され、逮捕された大院君は 清国軍艦で、天津へ連行された。忠州に隠れていた閔妃も王宮へ戻り、政権は再び閔妃一族の手に戻った。漢城へ進駐した清国軍3千名は そのまま居座り、袁世凱の指揮下、漢城を軍事制圧下におく。清国へ連行され、保定に3年間幽閉させられた大院君(幽閉を解かれるのは 1885(明治18)年である)は、その後何回か政界復帰を試みるが果たせず、1898年(明治31年)死去した(78歳)。
 壬午軍乱でソウルを逃れ、長崎に来ていた花房公使が、政府訓令に従い下関から朝鮮・仁川へ戻る際(8月16日)、金玉均一行も同じ 明治丸に便乗していた。この外に、高島鞆之助少将(陸軍)、仁礼景範少将(海軍)率いる一個大隊・二個中隊の陸海軍将兵(一千五百名余) も乗り込んでおり、これを4隻の軍艦(金剛・日進・扶桑・清輝)が護衛していた。一行は8月31日に京城へ入る。その折り、 清国は壬午軍乱鎮圧のため三千の軍兵を派遣し、2日間の戦闘の後、軍乱を鎮圧し、大院君を清国艦に乗せ天津へ連行し、保定に幽閉した 後だった。忠州に隠れていた、閔妃も王宮へ戻り、政権は再び閔妃一族の手に戻った。漢城へ進駐した清国軍3千名はそのまま居座り、 袁世凱の指揮下、漢城を軍事制圧下においた。清国は同年(明治15年)10月、強制的に朝鮮と「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を締結した。 そこには朝鮮は清国の「属邦」、貿易上の特権は清が独占、領事裁判権も併せ持つと記されている。この時点で清は、朝鮮に対し、 これまでの伝統的宗属支配から脱し、近代的帝国主義支配へと移行したのだった。


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