高宗の求めに応じて韓服を着た メレンドルフ
ウィキペディアより

 中国では、略奪は軍隊の戦利行為として許されるという伝統があったから、中国兵は漢城(ソウル)の市中を傍若無人に発砲しながら、 横行し、金銭財貨を奪い、女性を凌辱した。ついに清国軍司令部は特別風紀隊を編成し、巡回取り締まりを行わざるをえないほどであった。 他方、漢城(ソウル)進駐の日本兵2百名弱は規律正しく振る舞い、人々の賞賛を浴びた。
 憂慮された日本と清国の軍事衝突は辛うじて回避され、翌明治15年(1882)8月30日、6ヶ条から成る「日朝就航条規続約」 (済物浦条約、償金50万元、日本公館への守備兵配置、日本へ特使派遣)が締結された。しかし壬午軍乱の収拾のやり方は、日本へ 譲歩し過ぎだと北京官界では不評で、馬建忠は失脚した。朝鮮は閔氏一族が権力を握る旧態に復した。政権を取り戻した閔妃一族は清に 依存して政権維持を図る。1884(明治17)年、軍隊を旧式から新式に改めるが、新式軍隊は、袁世凱によって訓練されその指揮下 に置かれた。さらに清国より、外交顧問として馬建常(建忠の兄)とメルレンドルフ(穆麟徳)を招聘し、朝鮮の外交・軍事・財政をその 監視下に置き、清の北洋大臣は朝鮮国王と対等の地位となった。しかし金玉均・朴泳孝(前国王の娘婿で、準王族)・洪英植らのの独立党 (開化党とも呼ばれ、明治7年(1874)結成、これに対立する保守党は事大党)はこのような清への依存に反対で、その反動として 日本へ親近し、留学生を増やすと共に、新聞「漢城旬報」発行など独自の開化政策を進めていった。 済物浦条約に規定された日本への特使(朴泳孝)派遣は、明治15年(1882)年9月実施され、金玉均は案内役としてこれに同行 (第二次訪日)する。
 王宮へ戻った閔妃は一人の巫女を伴っていたが、この巫女が閔妃の王宮への無事帰還を予言したというので、彼女への尊崇篤く、北廟に 彼女のための祈祷所を設け、国費を惜しみなく注ぎこみ、北廟はシャーマニズム宗教センターと化した。この経費に使われたのが、税関 (釜山、元山、仁川に設置)収入で、監督責任者はメルレンドルフ(ドイツ人)と閔泳翊、閔氏政権の 重鎮・閔台鎬の長男)であった。1883(明治16)年、国庫財政逼迫を打開するために、メルレンドルフが授けた智慧が「当五銭」 と呼ばれる悪貨鋳造であった。市場はたちまち悪貨であふれ、物価は高騰した。


8