朝鮮反乱軍に襲撃される花房公使一行 ウィキペディアより

 金玉均は「当五銭」に猛反対で、自ら渡日して日本からの外債募集を図るが、失敗した。1884(明治17)年7月、清仏戦争が起こり、 朝鮮駐屯の清軍の半数が本国へ移動する。しかも開戦直後、清軍敗戦の報が次々と伝えられた。好機と見た、金玉均らは、 1884(明治17)年10月17日(陽暦12月4日)、日本公使・竹添進一郎の加担を得て、クーデターを敢行する(甲申政変)。 郵政総局落成祝賀会の宴席を襲い、政権要人(閔台鎬、閔泳穆、趙寧夏ら)を殺害した。日本公使館守備の仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊 の150名と陸軍富山学校に留学して帰国した朝鮮人士官学生10数名および新式軍隊の一部も出動して、王宮を制圧し、国王髙宗を擁して 政権を獲得した。閔妃側は清国軍に出動を要請する。清国の朝鮮公使・袁世凱が指揮して、清国軍1500名と朝鮮政府軍が出撃し、日清間 で銃撃戦が交わされる。12月6日、19時30分頃、竹添公使と日本軍は昌徳宮裏門より日本公使館へ撤収し、金玉均・朴泳孝・徐光範ら 9名もこれに従った。洪英植・朴泳教は国王の側について王宮に留まり、殺された。清国軍は12月7日から10日まで、髙宗を自軍内に確保し、 髙宗に教書を発布させ、臨時政府を発足させた。鐘路付近の商店は清国兵と朝鮮人暴徒により破壊・略奪され、日本人が襲われ、婦女子が暴行された。 12月7日午後、竹添公使は7月に新築したばかりの日本公使館に火を付け、全員退去を命じる。一行は漢江を下って仁川へ出、8日朝、 仁川領事館に着き、仁川に停泊中の千歳丸に乗り込んだ。そこにメルレンドルフと清国軍が追いつき、船内捜査を求める。竹添はクーデター に自分が関与した事が判るのを嫌い、メルレンドルフの船内捜査を承諾した。しかし船長・辻覚三郎は義侠心を発揮し、金玉均・朴泳孝・徐光範 らを船底に隠して、捜査を拒否し、彼等は日本へ亡命することができた。政変に参加した独立党員の身内には「族誅」が適用され、従者や幼い子供を 含む家族までが残忍な方法で処刑された。 日本政府は井上馨外務卿に陸軍2個大隊を付けて朝鮮へ派遣し、公使館の損害賠償を含む「漢城条約」を結んだ。翌1885(明治18)年、 日本は清国と条約を結び、(1)朝鮮からの日清両軍の撤退、(2)朝鮮への軍事教官派遣の禁止、(3)朝鮮出兵の際の事前通告を内容とする 「天津条約」を締結した.


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