北村透谷 ウィキペディアより

 明治28年(1895)生まれの金子光晴は、著書「絶望の精神史」で、フランス・カトリックの暁星中学校で漢文を教わった 野間三経(さんけい;雅号は陶淵明の「三経荒に就き、松菊なお存す」に由来する)について述べているが、当時自らを「道齋」と号する 生意気盛りの金子光晴には「偽聖人」と生徒が彼に付けた渾名がふさわしく思えるのだった。年月が過ぎ、大正10年(1921)、彼が 2年余のヨーロッパ遊学から帰国して、牛込余丁町に住み始めた折り、中学で国語を教わった水落松次郎教師(顔に疱瘡跡があるので 「堅パン」という渾名)に若松町の飲み屋街で偶然出会った。水落先生は、よろめく足を踏みしめながら嬉しそうに、「君、君、知ってるかい。 野間君が、頭がへんになったんだよ。ひまがあると、学校へやってきてね。そうだよ。停年で、とうに学校はやめてるのに、さっさと講堂の屋上 へあがって空をながめているんだ。そして、アメリカから飛行機がおしよせてくるといって騒ぐんで、もてあまされているそうだ」と言い置いて、 よろめきつつ立ち去ったと述べている(ご存じの通り、この予言は的中した)。その金子光晴が透谷の死について、個人に目覚めた透谷 の呼び掛けが、立身出世・金にざわめく周囲に、谺もなく消えてゆき、疾患と仕事の敗北感、恋愛と理想の食い違いが彼を死に追い詰めた のだろうと推察している。
 色川大吉は著書「北村透谷」において、藤村の「春」に描かれている青木(透谷)の姿は当時の透谷をほぼそのまま写し出しているだろうと 述べている。この小説の書き出しは、明治26年7月22日、西国放浪の旅から戻ってくる青木(透谷)を友人たちが東海道の吉原(鈴川) 宿に出迎えるところから始まる。その宴席で青木(透谷)はハムレットの身振り手振りをやる。彼に言わせるとハムレットは最も悲しい夢を見た 人間の一人である。藤村の耳には透谷がハムレットの科白を借りて自己の心情を吐露しているように響いた。「狂熱の光を帯びた彼の目は輝いた。 彼は冷たくなった酒を飲んですすり泣くように笑った」と藤村は描写している。


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