北村透谷と美那子夫妻

 北村透谷(21歳)と石阪美那子(24歳)の結婚式は、明治21年(1888)11月3日の天長節に数寄屋橋教会で、田村直臣牧師司会 で行われたが、石阪家からは一人の出席者もなかった。新夫婦は、京橋区弥左衛門町7番地の親の家(1階では母が煙草小売店を営業) の2階で、新生活を始める。美那子は賛美歌を歌ったりして、透谷の母に嫌われた。翌22年4月、透谷は処女作「楚囚の詩」を自費出版する。 2年後の24年5月、第2作品「蓬莱曲」(長編劇詩)を自費出版。同年11月に「女学雑誌」に投稿した「二宮尊徳翁」が採用・掲載され、 翌年、二度目に「女学雑誌」に掲載された「厭世詩家と女性」により世間の注目を浴びるようになった。明治25年1月、コーサンドが帰米し、 彼のもとでの通訳の仕事がなくなった。同月、イービー方の翻訳の仕事もなくなった。6月1日、長女英(ふさ)子が生まれる。この25年3月から 透谷は日本平和会の機関誌「平和」の主筆に就任する。この間、透谷夫婦は弥左衛門町の親の家を出て、芝区高輪東禅寺境内(25年5月)、 芝公園地20号(25年8月)、麻布区箪笥町4番地(25年11月)、麻布霞町22番地(26年4月)、国府津在前川村長泉寺(26年8月) と転々と引っ越しを繰り返す。透谷の生活は困窮しつつあった。麻生教会関係の仕事は失われ、「聖書の友」編集業務(これまでの彼の主要な収入源) も10月で終わりとなった。彼は民友社依頼の「エマルソン」を書き上げればと、その原稿料を当てにしたが、それは甘かった(当時の原稿料は安いものだった)。 9月初め頃から、透谷は精神に変調をきたす。明治26年10月、25歳の透谷は「漫罵」という文章を綴り、それは10月30日に「文学界」に掲載された。 この「漫罵」という文はある夏の夕方、透谷が友人と銀座から木挽町へと散歩をし、周囲の建物、道行く人々の服装の雑ぱくさを嘆じ、今の時代は ひたすらエロ・グロの刺激のみを求め高尚な文化・創造的思想の欠如した時代だと嘆じた文章である。しかしこの指摘はそのまま現今日本に 当てはまるではないか。この頃、透谷の生活は窮迫しつつあった。麻生教会の仕事は失われ、「聖書の友」編集業務(これまでの彼の主要な収入源)も 10月で終わりとなる。彼は民友社依頼の「エマルソン」を書き上げればと、その原稿料を当てにしたが、それは甘かった(当時の原稿料は安いものだった)。 9月初め頃から、透谷は精神に変調をきたす。26年12月、透谷一家は再び弥左衛門町の親の家へ戻って来た。同月28日、彼は喉を刺して自殺未遂、 東京病院へ担ぎこまれた。明治女学校は除籍となる。27年(1894)1月に、病院から芝公園地20号のもといた家へ彼は戻る。4月に自著「エマルソン」 が発行されたが、その本を手に取って開けてみる気力はもうなかった。5月中旬、2,3日、1歳11ヶ月の自分の子供をしきりに拝んでいたが、5月16日早朝、 庭先の木で縊死した(24歳4ヶ月)。

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