宮崎滔天 ウィキペディアより

 透谷の死ぬ2ヶ月前の3月29日に、朝鮮全羅道において東学党が蜂起した。甲午農民戦争(東学党の乱)である。東学は西学(キリスト教) に対抗する思想で、山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦に備え、木剣を持って剣舞を舞い、各国在外公館門前に「斥倭洋」の貼紙をしたりした。 韓国政府は宗主国である清国に東学党鎮圧を要請し、清国は出兵する。日本政府はこれより先に大本営を設置し、出兵を決定していて、かくて 日清両軍は京城周辺で睨み合うこととなり、7月25日の豊島沖海戦をもって、日清戦争の火ぶたは切られた。
 滔天宮崎寅蔵は孫文達の辛亥革命を支援した大陸浪人(また浪曲師)として知られているが、その著書「三十三年の夢」の中に、金玉均との 交渉を記している。
 明治27年初春、24歳の滔天宮崎寅蔵は熊本より上京して、金玉均を品川に訪ねた。品川海岸に当時、海水浴場があり、金玉均は日本名・ 岩田秋作として、ここに住んでいた。滔天が訪れて面会を求めると、金玉均は彼を座敷に上げてくれた。すでに先客二、三人がいて酒を酌み交わしており、 滔天はその座に加わり半日を過ごしたが、客の目を盗んで、密談したい旨があると金に耳打ちした。その夜、金は漁船を仕立て、月明の海で漁師が網を 引く間、密談する機会を作ってくれた。滔天が朝鮮問題の根本解決には支那問題解決が先決である旨を説くと、金は自分も同意見だ、近く清国に訪問する 予定で、準備は完了している、たぶん三週間以内に結果を報告できるだろう。この事は人に漏らさぬようにと言った。滔天は叩頭感謝して献盃し、金は これを受け、朝鮮の歌を大声で歌った。滔天も詩を朗吟した。たまたま魚が船中に跳ね入った。金は吉兆だと喜んで、海へ帰してやった(周の武王が殷の 紂王討伐軍を率いて黄河渡河の際、白魚が船中に跳ね入った故事。革命成就の吉兆)。二人は一緒に月明の詩(東海散士「佳人之寄寓」第4巻で アイルランド独立党亡命者紅蓮女史が大西洋上で吟ずる長詩のリフレイン部分)を高唱した。「志を談ずるは倶に是れ異郷の人、心を照らすは唯だ有り 一輪の月、月は大空に横たわって千里明らかに、風は金浪を揺るがして遠く聲あり、夜は寂々たり望み茫々、船頭何ぞ堪えん今夜の情」。
 金玉均が福沢諭吉を訪問したのは明治15年6月であった。金は白の単衣に角帯姿で、「福沢先生デスネーーーワタクシ、タイヘンオ会イシタカッタ」と たどたどしい日本語で挨拶した。「わたしもですよ、金さん。あなたのことは柳くんたちによく聞かされていましたからね」と福沢が応じた。その一年ほど前、 柳定秀・兪吉濬という二人の朝鮮人留学生が慶應に入っていた。


3