福沢諭吉 ウィキペディアより

 福沢諭吉の子、福沢大四郎の著書「父・福沢諭吉」によると、「朴泳孝、金玉均その他四、五名の朝鮮人がずっと泊まり込んでいたこともある」そうで、 大四郎は金玉均たちとよく箱根に行ったことがあるそうである(余談ながら、大四郎の子・進太郎は慶應の仏語の先生で、彼とギリシャ人のオペラ歌手の 夫人の間に生まれた子がレーサーの福沢幸雄である)。金玉均らの亡命政治家は、内外慈善家の寄付により、経済的に困窮することはなかったが、 日本政府の後押しで、宿志は達成できると期待していたのに、期待外れだったため、大不満で不平のあまり日本側当局者を威嚇するような態度を取ることも あったので、ますます嫌われ、大井憲太郎たちの朝鮮渡航計画暴露の後、小笠原へ流罪同様移されることとなった。明治18年末、田健治郎警部が指揮 する警官三十数名の厳重な警備の下、品川から秀郷丸に乗せられて送り出された。金は乗船直前まで田と碁を打っていたという。
 小笠原滞在は長くなく、その内に健康を害して、治療のために東京へ帰って来た。当局はすぐに彼を北海道へ送ろうとしたが、岡本柳之助らが抗議して、 出発は延期され、十分な療養を東京で受けることができた。北海道には二年間居たことになっているが、実際には東京にいることが多かった。 北海道の金玉均へは、福沢諭吉や門下の犬養毅・尾崎行雄らより、金銭・物品の援助が行われた。明治24年に日本政府の拘束は解除され、以降、 彼は自由に東京に居住する。彼の寓居へ出入りする者も増え、中には朝鮮事大党派遣の刺客も混じっていた。池運永という刺客来朝の際は、 これを捕まえ携行していた毒薬・武器を証拠に警察へ突きだした。頭山満は、そういう彼の身辺を気遣い、大石良雄の故事を引いて遊里への出入りを勧め、 それに従った彼の狂態は真面目な同志のひんしゅくを買い、遂には親友の朴泳孝との絶交すらもたらした。金玉均の方は亡命生活10年に及ぼうとしている のに未だ成果が見えぬ事に焦りを覚えて来ていた。そんな彼に李逸植・洪鐘宇、劉慶汾(支那公使館参事官)らが近づいて来た。洪鐘宇は明治21年頃 来日し3年ほど滞在の後、パリで苦学し、明治26年頃、再び東京に現れた。李逸植はそれより早い明治24年頃東京へ来て金玉均達と交際して、 暗殺の機会を窺っていたが、金玉均はいつも連れがおり、二人を殺すには同時である必要があり、一人では無理と連れを探しているところに洪鐘宇が登場した。


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