洪 鍾宇(1895年) ウィキペディアより

洪鐘宇はパリから京城に戻った際、事大党党首・閔泳韶を介して国王の御前で世界の情勢を開陳し、国王は彼が海外の事情に詳しいことに感服し、 彼を登用しようということになった。王は彼が以前日本に滞在していたと知ると、逆賊・金玉均を殺害してくれ、これを成し遂げたならば汝を外務大臣に 登用しようと告げ、莫大な内帑金を下賜された。東京に現れた洪は、貧しい服装で、先だって在日している権東寿・在寿兄弟の手になる書画を売って廻った。 彼は容貌魁偉、弁舌さわやかで、次第に人々の信用を得、陸羯南などは「金玉均などは彼のような人物を相談相手にすればよかろうに」と洩らしたほどだった。 洪は神田の高等下宿を宿として、朝鮮駐在の袁世凱経由で北京の李経芳(李鴻章の子)と連絡を取り、金玉均を支那に誘い出して殺害する計画を建てた。 李経芳は駐日公使として東京に勤務していたことがあり、その時分、金玉均とも交際し、知己の間柄だった。金玉均と李経芳間の文書往来は在日公使館が介在した。 朴泳孝(韓国国旗・大極旗のデザインは彼による)は金玉均と共に日本に亡命したが、温良寡黙な彼は、出自は上なのに、日本では鋭敏多弁な金の下風 に立たされていた。その朴に、明治25年頃、商用で日本に来たという李逸植という男が接近して来た。李は金持ちで、月百円を朴に、二十円を従者に 与えていた。明治27年2月、李逸植は朴泳孝を伴って金玉均を訪問し、上海に行けば自由になる金が受け取れるが、行かないかと誘った。金は疑いながらも、 心が動き、箱根塔の沢に避暑している福沢諭吉を尋ねて、相談しようとしたが、福沢は墓参のため、郷里中津に帰省中で会えなかった。
 明治27年2月頃から、金玉均は周囲の者に支那行きの意向を洩らし始めた。日本側有志の一部では金玉均の周囲にちらちらする洪鐘宇や李逸植を 怪しい人物と見て警告を発する者もいた。頭山満は金玉均に「彼奴らはただの鼠ではない。うかつに交わりを続けていると九仞の功を一簀に欠くぞ」と注意した。 金はこれに対し「僕もそう思っているんだが、いまさらどうも仕方がない。虎穴に入らずんば虎児を得ずという訳だ。


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