金玉均を射殺する洪鐘宇(当時の新聞から) ウィキペディアより

 天は我々をただ生んでくれたのでもあるまいから 心配してくれるな」と答えた。金玉均と書生の和田延次郎、呉葆仁、洪鐘宇を乗せた西京丸は明治27年3月27日、上海に到着する。一行は米租界鐵馬路 の東和洋行(日本人経営)の旅館に投宿した。翌日は午後居留地見物をしようということになって、午前中、呉は金に頼まれて支那服を買いに洪は銀行へ、 金もちょっと外出したが、気分が悪いと戻って、自分の部屋でベッドに横になって本を読んでいた。そこに洪が戻って来て、書生の和田が、金の依頼で、西京丸 事務長へ使いを出すため帳場へ降りて行ったのを見済まして、着ている朝鮮服のポケットから拳銃を取り出して、金を撃った。第2弾、第3弾を腹部・頭部に 撃ち込みとどめをさした上で立ち去った。銃声は帳場へ行く階段の途中にいた和田の耳にも達したが、前日から爆竹が盛んに鳴っていたので、彼はその音かと 怪しまなかった。洪が階段を走り降り、彼の横をすり抜けて表へ走り去ったので、怪しんでその後を追いかけたが、表に出てみるともう洪の影は見えなかった。 その時、上階から日本の海軍軍人が、「金玉均がやられた」と叫びつつ駆け下りて来た。金玉均の死体は日本で葬儀するために手続き中、清国官憲に横取りされ、 清国軍艦・威遠号で朝鮮へ運ばれた。日本では大井憲太郎らが金氏友人会を組織して、その死体の日本への返還を朝鮮政府へ求めるよう外務省へ迫ったが、 外務省ははかばかしい反応を示めさなかった。朝鮮政府は金の死体を4月14日、楊花鎮にて「凌遅の刑」(人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり 苦痛を与えつつ死に至らす処刑方法)に処した。李鴻章からは朝鮮政府へ祝電が送られた。首と手足は獄門にさらされ、「謀叛大逆不道罪人玉均、當日 楊花津不待時凌遅處斬」の札が建てられ、内蔵その他は漢江へ捨てられた。現場から逃れた洪鐘宇は米国警官に逮捕されたが、李鴻章はその身柄を引き取り、 朝鮮国王へは祝電を打った。日本の金玉均の友人・井上角五郎らは「故金氏友人会」を結成し、「葬送故金氏玉均」と大書した幟を押し立て、大行進の 葬儀を浅草本願寺で営み、これに千余名が参列した。墓は青山の外人墓地に設けられる(後に甲斐軍治が夜陰に乗じ、楊花鎮の獄門より遺髪を盗み、 これを本郷駒込の眞浄寺に移して埋葬した。従って墓は二つある。)

{参考図書}
平岡敏夫「北村透谷研究 評伝」(有精堂)、金子光晴「絶望の精神史」(光文社)、佐高信「福沢諭吉伝説」(角川学芸出版)、 杵淵信雄「福沢諭吉と朝鮮」(彩流社)、東亜先覚志士記伝(上巻)(原書房)


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