明治6年(1873)1月12日に、征韓論否決に抗議して辞職した参議たちは銀座の副島種臣邸に集まり、 協議の末、「民選議院設立建白書」を起草した。これに署名した8名のなかに江藤新平もいたが、これが左院へ提 出された1月17日には、彼の姿はもはや東京には見えなかった。1月13日に、病気療養を理由に帰県を願い出て、 許され、郷里・佐賀へ向かう船中にあった。政府は虎を野に放つことを怖れて、辞任参議全員に「御用滞在」という 禁足令を出しており、江藤も最初の願いは却下されたが、再度願い出て、受理されたのだった。同郷の副島種臣も 帰郷を申請したが、こちらは不許可だった。(西郷はこの太政官命令を無視して帰国した)。佐賀では、「憂国党」 (不平派士族)約千名、「征韓党」約2千名、「中立党」(政府党)約5百名の3派が鼎立してせめぎあい、沸騰していた。 江藤の真意はこのような情勢の鎮静化にあった。後藤象二郎は江藤が不平士族の首領にかつぎ出されることを危ぶみ、 帰郷はやめたほうがいいと忠告したが、「いや民権論をもって、誓って鎭撫する」と断言して、江藤は出発した。 彼はすぐには佐賀へ入れず、船が伊万里に着いてからしばらく嬉野(うれしの)温泉に滞在し、1月25日に佐賀へ入った。 しかし城下の情勢は、江藤自身すら暗殺の危険にさらされるありさまで、彼は再び城下を離れ、湯治の名目で、長崎へ 退避した。


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