新開大神宮
 大久保にとって、木戸が閣外へ去ったことは大きな痛手であり、また板垣が自由民権派にかつがれることも面白くない。 関係修復を目的とした三者会談が、伊藤博文・井上馨のきもいりで、明治8年(1875)2月11日に大阪で開かれ(大阪会議)、 木戸・板垣は政府へ復帰することとなった(板垣は、自由民権の同志たちから、これを背信行為として責められる)。 この体制は、合意事項の実施段階における食い違いや江華島事件処理をめぐる意見対立から半年後には瓦解し、板垣は閣外へ去るが、 立憲政体樹立へ向かって政府が動きだしたこと(同年4月14日にその趣旨の詔書が下されている)は大きな収穫であった。  憂慮されていた士族の反乱が、佐賀の乱より2年8ヵ月後の明治9年(1876)10月、立て続けに3件起こった。 神風連の乱(10月24日)、秋月の乱(10月27日)、萩の乱(10月28日)である。ひそかに結ばれていた肥筑長三角同盟にしたがい、 秋月も萩も熊本の神風連に続いて蜂起した。熊本の敬神党(神風連の正式名)は三角同盟の主唱者だが、鹿児島に使者を送って、 四角同盟にしようとはしなかった。肥後士族はむかしから薩摩士族と仲が悪かったからである。これに反し長州とは、吉田松陰の 熊本訪問以来、浅からぬ仲であった。 しかし同盟の間柄とはいえ、神風連が他の二藩の同志に前もって決起の日取りを連絡した形跡はない(神風連の中にすら、 決起当日になって、

桜山神社 林桜園の墓
通知を受けた者がいた)。彼らは林桜園(1796~1870)の教えを継ぐもので、 「神事は本なり、人事は末なり」という大方針に従い、行動をすべて「宇気比(うけひ)」の神託によって決めていたのだ。第 一回の「宇気比」は、新開大神宮(新開村の伊勢大神宮)において、佐賀の乱の際に行われ、決起は「否」という神慮だった。 明治8年初頭、再び「宇気比」が行われ、1.政府に建白して今の政治を改めさせる、2.刺客となって、奸臣を倒す、 3.義兵をあげて世の流れを変える、の3案につき神意を問うたが、いずれも「否」であった。明治9年2月廃刀令、5月断髪令、 8月秩祿処分による華族・士族の家祿廃止で、不平士族の憤りは沸騰点に達していた。三度目の「宇気比」が実施され、今回は「諾」 と出た(本項は主として渡辺京二「神風連とその時代」ならびに神風連資料館「神風連小史」による)。



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