肥後細川藩の藩士は学校党(藩校時習館による門閥派、朱子学)、実学党(藩学への批判派、陽明学)、勤皇党(国学) の三派に別れ、犠牲者を出しながら、争っていたが、維新の際、佐幕派の学校党は力を失い、東征軍に参加した実学党と 尊王攘夷の勤皇党が勢力を得た。この勤皇党がさらに進歩派と保守派に分裂し、前者は新政府へ協力の姿勢を見せたが、 後者は攘夷にこだわり、敬神党と呼ばれ、新政府への協力を拒否した。時の権令・安岡良亮は、慶応4年に起きた堺事件( フランス水兵殺害事件)で切腹を命じられた土佐藩士20名のうちの生き残りだった。切腹する土佐藩士がつぎつぎと腸を掴み だして、検分のフランス公使へ投げつけ、あまりの凄まじさに切腹は11名で中止となり、彼は生き残ったのだ。この安岡権令は、 仕官を拒否する敬神党の面々を懐柔するため、県内の神社への神職を斡旋したが、その採用試験の答案に、「人の心が正しけ れば、元寇の時のように神風が吹きおこり、夷敵は打ち払われる」とそろって書いたので、「これじゃまるで神風連だ」 と試験官が慨嘆し、以後、彼らは「神風連」と呼ばれるようになった。ただし攘夷と言っても、敬神党の主張はあくまでも 受け身で、征韓論にも台湾出兵にも反対であった。
 こう述べてくると、このような人々を生んだ熊本という土地は文明開化 に遅れていたかのような印象を受けるが、そうではなく、明治3年(1870)にはすでに他に先駆け、官費の洋学校・医学校が設立 され、外人教師を招くという革新性も示している。医学校では、オランダ海軍軍医・マンスフィールドが教鞭をとり、北里柴三郎 を育てたことで有名である。洋学校には米国退役軍人L.L.ジェーンズが招かれ、全寮制、全授業英語で、日本初の男女共学も 行っている。この洋学校から日本三大バンドの一つである熊本バンド(他は横浜バンド、札幌バンド)が生まれ、日本キリスト 教界・言論界で指導的役割を演じる小崎弘道、海老名弾正、金森通倫、浮田和民、徳富蘇峰らを輩出した。明治9年(1876) 1月30日に、これらの人々を含む洋学校生徒35名が熊本市西郊の花岡山に集まり、讃美歌を歌い、黙祷と聖書朗読ののち 、「奉教趣意書」に署名し、熊本バンドは結成されている。しかし「奉教趣意書」の文言、「遂にこの教を皇国に布き、大いに 人民の蒙昧を開かんと欲す」などが因をなし、同年8月、熊本洋学校は閉鎖された。
 極左派の植木学校も、明治8年4月に、 熊本県第五番中学として開校を許可されている。大久保内務卿の内意を受け熊本の反政府派を切り崩しつつあった安岡権令の 懐柔策である。開校があやぶまれたのに、蓋をあけると生徒が押し掛け、最盛時には80名を数える人気だった。国漢の学はつけたり で、文明史、万国史、万国公法、モンテスキュウの万法精理、ミルの自由之理、ルソーの民約論などバタ臭い課目が並ぶ。特に ルソーの民約論は「聖典」のように読まれ、学校設立者の一人宮崎八郎(孫文を援助した宮崎滔天の兄)は、「泣読廬騒民約論 (泣いて読むルソー民約論)」という結びの七言絶句を作り、同校生徒はこれを高唱した。(同校はしかし、その過激さゆえか、 同年10月にはやくも閉校の運命となる。)



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