神風連志士列墓
 同じ年の10月24日夜、神風連の一党は熊本鎭台に近い藤崎宮裏手にある同志の家に集結した。その数170余名。 大方は平服に大小、白鉢巻き・白だすき姿だが、甲冑に烏帽子直垂という者もあった。みな「勝」と記した小布を肩に付けた。 首領・太田黒伴雄は背に軍神八幡宮の御霊代(みたましろ)を背負い、将師の印とした。洋式兵器は不可ということで、武器 は刀と槍のみ、ただし焼き打ち用焼き玉と石油缶入り竹筒は許容された。半月が山の端に入るのを待って、行動は開始された。 「御神勅」・「天照皇大神宮」・「動」・「静」と4本ののぼりがひるがえり、一行は3隊に別れて進軍した。第一隊は砲兵営 (現県営プール・合同庁舎)攻撃、第二隊は歩兵営(現県立美術館本館裏の広場)攻撃、第三隊は要人攻撃で、最後の隊は 鎭台司令官種田少将、参謀長高島中佐、連隊長与倉中佐、安岡権令、太田黒惟信県会議長の5人を目標に、途中から数名づつ 別れて向かった。
 「寒い風の吹く夜であった」と9歳の石光真清は、「城下の人」で、当夜を回想している。真夜中すぎ、 半鐘の音でめざめた石光少年が外へ出ると、県会議長太田黒惟信の家から火の粉が舞い上がっていた。彼は友達二人と火事場 へ駆けつける。現場で彼が見たのは、烏帽子直垂に、剣道胴を付けた男たちが、槍を抱え、白刃をきらめかせながら、炎の中 から現れ、また闇へと消えてゆく姿だった。やがて城にも火の手があがり、かまびすしい銃声がきこえる。この頃、種田司令官 を襲った一隊は、「国賊起きよ」と妾と同衾中の種田の枕を蹴った。種田は1尺7寸の枕刀を抜いて応戦したが、たちまち 斬り伏せられた。妾は狂乱して、だれかれとなくすがりつくので、襲撃者の一人が軽く一太刀浴びせた。それが、「 ダンナハイケナイワタシハテキズ」と東京の親許へあてた妾の電文となり、仮名垣魯文が「代わりたいぞえ国のため」と続けて 人口に膾炙した。



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