熊本城 兵営は二の丸広場の前と横にあった
 砲兵営を襲った第一隊は奇襲に成功した。寝入りばなを襲われた兵隊たちは下着姿で逃げ出し、弾薬がないので、銃剣 でわたりあうしかなかった。砲兵営を制圧した第一隊が歩兵営を攻撃中の第二隊の加勢に赴くころ、形勢は逆転しつつあった。 馬丁の法被姿で逃げた与倉連隊長が駆け付け、京町の遊郭に登楼中であった児玉源太郎少佐(日露戦役の名参謀)も丹前姿 で駆け付け、彼らの指揮の下、弾薬も供給されるに及び、叛徒はつぎつぎと銃弾に打ち倒された。城の北東、法華坂に退いた ところで、首領・太田黒伴雄は胸に一弾を受け、これまでと切腹する。介錯する義弟に彼は、自分はどちらを向いているか尋ね、 西だとの答えに、東(皇居の方角)へ向け直してくれと頼んで、首を打たれた。(彼が背負っていた軍神八幡宮の御霊代 (みたましろ)はその場に放置され、翌日、一党の幹部・富永守国の母が、息子に依頼されて拾いに行っている)。 神風連は、太田黒の死とともに総崩れとなり、この戦乱は一夜にして終息した。鎭台側の死者は将校14名、下士官21名、 兵卒83名の計118名。これに対し、神風連の戦死者は31名であった。神風連の死者の特異な点は、この後、生き残った者 がつぎつぎと腹を切り、その数が87名に達していることである。
 熊本市の北郊、熊本大学キャンパスの近くの桜山神社に は神風連志士列墓124基が整然と並んでいる。紅一点は阿部以幾子(26歳)で、夫の後を追って自害した。最年少は猿渡唯夫16歳。 この神社の境内には、「神風連資料館」があり、延々と彼らの辞世が展示されており、なるほど林桜園の教えは国学で、国学 とは和歌をよむのだなと感じいった。桜園の弟子は県外にもおよびその数、1200名。吉田松陰、大村益次郎、島義勇、河上彦斎 (人斬り彦斎)も弟子である。なるほど、大学者だったのだなと感じいったが、えっと思ったのは、蘭学も講じたとある点である。

太田黒伴雄切腹の地
ただし、蘭書を床に置き、足で踏んづけてから講義した由である。展示品の中に、荒木精之(神風連研究者)と肩を並べた 三島由紀夫の写真もあった。三島が神風連の賛美者ということはよく聞くが、どこが彼の心をとらえたのだろうか。  電線の下を通る時は、扇子を広げて頭の上にかざしたとか、つねにきよめの塩を袂に入れておいて、洋服の者に逢うと撒いたとか、 神風連をめぐる珍談にはこと欠かず、「今回の一挙は嘲笑によってむくいられた」と渡辺京二は記している。 「実に心事は笑うべくとも憐れむべきとも申しがたき次第」と木戸孝允も手紙に書いている。戦前、桜山同志会という組織があり、 神風連の復権に努めたが、その会の者が出版物を縁故者に見せたところ、「どうしてあんな事をしたろう。また後で死なんでも よかったろうに」という返事に二の句が継げなかったそうだ。昭和13年という軍国主義はなやかなりし頃の話である。 縁故者にしてしかり、一般の反応はまさにその通りであろう。むしろ三島由紀夫のような反応こそ、「どうして?」という疑念がわく。 精神の純粋さという点を評価したのだろうか、「一種の神秘的秘密結社というに近し」と徳富蘇峰も述べている。   しかし「花より団子」。敗戦後の餓えを知る者には、「精神」の理屈よりは、「食うこと」の理由の方がわかりやすい。


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