太田黒伴雄の墓
 明治初年の人口はざっと三千万、そのうちに武士は(家族もふくめ)二百万弱、人口の7パーセント、それらが明治4年の 廃藩置県で一挙に失業させられたと、司馬遼太郎は説く(「『明治』という国家」第十章サムライの終焉あるいは武士の反乱)。 「士族からみれば、バカにした話じゃありませんか」と司馬はつづける。「明治維新をつくった側の士族(その代表的なものは、 薩摩藩と長州藩。それに土佐藩と肥前佐賀藩)は命をマトに戦争に出かけて、北陸で激戦をし、東北で攻城戦をやり、北海道 の箱館まで行って戦争をして、やっと命一つで東京に帰ってくると解散です。ほとんどの士族にはごほうびもお手当も出ません。 国もとへ帰ると、士族は廃止というわけです。これで腹をたてない人がいたら、きっと仏様のような人でしょう」。
 石光真清は、熊本の士族の窮乏を、「城下の人」の中で、次のように描いている。「軍も官も、ともに薩長土肥の四藩士に 占拠されて、分け入る隙もなかった」、(実業に転身しても)「なんと言っても武士の商法、十に八つは失敗を重ねていった。 総ての旧藩士は、この例にもれず辛酸をなめていたのである。ある者は世をなげき山にこもって炭を焼き、ある者は転々と職 をかえて、屠殺業にまで転落した。旧藩士の主だった人々の姿が、ぼつぼつと熊本城下から消えて、無人の邸内には夏草 が生い繁った」。
 谷口瀬一郎は福岡藩士族であるが、脳溢血で死去した後、家族の者が仏壇の中に彼の遺書を発見した。 その文面は次のようなものであった。
 「御維新の大改革は、予が所業ではなかった。お上の御処置である。 この家は御先祖が、武士道の勲しで建てられた家である。それが町人百姓と立並んで、衣食を争ふような卑しき身分に突き落と された時に、この屋は亡滅したのである。ゆえに御先祖が、槍先の功名で建てられた家は、その子孫が、綺麗に食うて飲んで、 物尽きた時は、家族一同は、腹を切って死ぬのが武士道である。浅間しき所行をして持ちこたへるのは御先祖建家の御本旨ではない、 ゆえに飲めず食へずになって、とうとう百姓町人に頭を下げて、ことば遣ひまで改めねばならぬようになったら、一同御先祖の 御位牌の前に押しならんで、自殺をして死ぬのぢや、家族一同この言きっと心得べし云々」( 杉山茂丸「秋月騒動の嫌疑者となる」・「日本の名随筆 別巻95 明治」)。藩は異なるが、当時の追い詰められた士族の心情は、 このようなものであったろうか。 首領・太田黒伴雄は「必敗を確信していた」と渡辺京二は説くが、神風連の乱には、将来展望 を持てぬままの、集団自殺といった印象を拭いきれない。
 下級士族を主体とする敬神党(神風連)が旧藩内で、いかに疎外されていたかを示す一例は、騒動の報せを受けた学校党の 佐々友房(浅間山荘事件の内閣安全保障室長・佐々淳行の祖父)が、学校党より同調者を出さぬよう、メンバー間を飛び廻り、 自重を促したことからもうかがえる。落ち延びてきた神風連一行は、幼君を守るため藩侯邸の門前を固めている学校党士族に、 助力を求めるが、冷たく拒否されている。(中村 聰)


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