秋月 眼鏡橋
   秋月を訪れたのは五月末。晴れているのに時折パラパラと雨が降るような日だった。8時11分博多発の快速に30分ほどのり、基山で私鉄甘木鉄道にのりかえ、 終点甘木まで30分ほどのり、さらに間遠な運行のバスにゆられて眼鏡橋のバス停におりたったときは、山奥へわけ入ったような気分になった。 秋月は筑前と豊前をむすぶ秋月街道のかなめで、江戸時代は「秋月千軒のにぎわい」と謳われたそうだが、いまは眠ったような山間の町である。 秋月城址前の大通り、桜の名所・杉の馬場は、葉桜の季節で、週日ということもあり人影がなかった。この通りにある秋月郷土館に入り、絵ハガキと 川上水舟著「秋月党」をもとめた(この項の秋月関係の記述はおおむね同書による)。
 秋月藩は、黒田長政の三男・長興が五萬石を分け与えられて 福岡藩(黒田家)の支藩として発足した藩である。この支藩は幕末に尊王攘夷気分が濃厚であったが、本藩(福岡藩)が佐幕を固持して動かなかったため、 なすところなく維新を迎えた。時代の波に乗り遅れたという思いは、旧士族のあいだによどんでおり、神風連が持ち掛けた肥筑長三角同盟案に、 彼らはやすやすとのったのである。
 神風連の使者が秋月を訪れて、決起を告げたのは、決起の前日、明治9年(1876)10月23日だった。 三角同盟の申し合わせによる決行日は、11月3日(天長節)のはずで、これは寝耳に水のしらせだった。使者に付き添い秋月士族3名が熊本へ急行し、 彼らは神風連と共に歩兵営へ斬り込んだ。緒戦の勝利を目で確かめてから、3名はいそいで秋月へ引き返し、25日夕刻、神風連勝利と郷党へ報告した。 その夜のうちに出陣のふれが秋月の同志の間を廻り、百数十人が田中天満宮へ集った。天満宮の境内では狭すぎるので、麓の西福寺境内を本陣とし、 夜営した。総大将は今村百八郎(ひゃくはちろう)である。彼らは「急進派」で、これに対して「漸進派」の宮崎車之助(今村百八郎の兄。百八郎は 宮崎家より養子に出た)は六,七十名の同志とともに秋月学校へ集った。この「漸進派」は、やがて秋月出身の江藤郡長が懇々とその不心得を諭したので、 その説得にしたがい、解散する。兄の宮崎車之助は西福寺へおもむき、弟の今村百八郎にも解散をすすめたが、弟はきかなかった。


秋月 杉の馬場
写真提供:秋月観光事業者組合

秋月の武家屋敷

田中天満宮

西福寺跡


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